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真我は慈愛に溢れている。 誰の心の中にもあって、その灯火を絶やすことがない。 自らを求める者に、いつも道を用意して待っている。 決して見放すことなく、どんな時でもすぐ側にいてくれる。 無条件で抱きしめ、慰めることを惜しまない。
真我は幸福そのものを体現している。 そこでは苦悩や欠乏が起こらず、穏やかで満たされている。 そうなるように努力して何かを成し遂げたわけでもなく、 必死に幸福を壊さないように守っているわけでもない。 その本性が幸福であり、つまり幸福だと宣言するまでもないのだ。
真我だけが至高ということができる。 それがこの世界の頂点であり、それ以上という場所がない。 「高みを目指せ」と聖者は言ったが、確かにその高みはあるのだ。 まだ見通せない場所があるのなら、それはまだ至高ではない。 すべてを見通せる場所で静止したなら、 それは真我という至高に至ったのだ。
真我だけがこの世界唯一の勝者だ。 どれだけの強者でも、これに勝つことはできない。 真我に戦いを挑んでも、触れることさえできないだろう。 真我は世界の頂点にあり、そこから陥落することもない。 この世界の誰もがこの勝者になることができる。
どれだけの富があっても、真我は超えられない。 真我だけが真の富者ということができる。 すべてをその手の内にし、必要なものなど何もない。 それらを失うことも、奪われることもない。 真我は何の努力も執着もなく、すでに富者として在る。
真我は何も身に付けず、何も持っていない。 そのため、世界からは貧しい姿に見えるだろう。 だからといって、真我が世界に何かを求めることはない。 求めずとも、その真我の内に世界はあるのだ。 世界はそれを知らず、真我は貧者として世界を慈しむ。
真我には一切の音がないため静寂と呼ばれる。 それは真我にとって変えようのない自らの本質のこと。 そこで静寂でいようと努めているわけではない。 心の中の音を鎮めることで静寂になるのではなく、 真我自身として在れば、それは自ずと静寂になるのだ。
真我は自我を超えたところから世界を見ている。 それは認識と呼べるものだが、決して自我ではない。 そこには自我の要素がまったくないからだ。 本来、「私」とはこの真我のことであり、 ここに存在していると気づいている知性のことだ。
真我は目に見えないからといって無ではない。 それは決して消えたり、失ったりするものではないのだ。 そこに有ることが真我であり、それは誰にでも認められる。 無を観察するのではなく、有ると同化することだ。 無に紛れるのではなく、有るを明晰にすることだ。
真我は静止しているため時がない。 それは世界の時の中心に留まり、同時にすべての時を網羅している。 そもそも真我には過去や未来、現在といった時間の概念がない。 時のない真我を源流として、世界には時の移動が起こっている。 人の過去生や転生も、真我にとっては重なった瞬間の出来事なのだ。
真我を貶めることも汚すこともできない。 汚物や悪意を投げつけられても、真我には曇りひとつ付かない。 世界の変動に影響されることもなく、ただ無垢のままでいる。 そうして世界を拒絶したり無視したりしているわけではない。 そう在ることが世界の本質たる所以なのだ。
真我はこの世界よりも巨大だ。 世界の始まりの前には真我だけがあった。 その真我の海に発生した小さな泡がこの世界なのだ。 そのことを世界は知らないかもしれない。 それでも真我はいまも世界をその懐に抱いている。
真我は何も付加されていないため純粋だ。 混じり気が一切なく、わずかな曇りさえない。 無色透明で何の性質もなく、特色というものもない。 それをこの世界では純粋性という言葉で説明するかもしれない。 だが、純粋な真我が自らの純粋性を主張することはない。
真我を対象のように見ることはできない。 唯一の主体が主体自身を見ることはできないからだ。 それは誰の心の奥にも見る者として確かに存在している。 目に見えるものだけを信じる者は、この事実に戸惑うだろう。 だが、それは誰もが主体だということの証なのだ。