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「リカバリーって強欲だ」

「リカバリー」の本当の意味が「取り戻す」だとしったとき、ぼくはリカバリーという言葉がきらいになりました。それを言ったのは、この世に数多くいるリカバリーを唱えるうちのひとりでしかなかったけど、ぼくを絶望させるには十分でした。

リカバリーには、いろいろな意味があります。マーク・レーガンの定義を解釈すれば、病気や困難があったとしても希望や自信を取り戻し、自らの生活や人生に挑戦する「過程」そのものなのだそうです。

やはりここでも「取り戻す」という言葉がでてくる。なぜ「手にいれる」ではいけないのでしょう。取り戻すというのは、もともと持って生まれたものがあるひとにとっての希望であって、持たざるまま生まれてきたぼくのような人間には得られないのではないか。持たざるものにリカバリーは訪れない。そう言われたように思えてならなかったのです。

ぼくは重度の発達障害をもってうまれました。自由に身体を動かすことはできず、だれかの介助なしで生活することはできません。コミュニケーションにも難があり、スマホのおかげで考えていることの1割程度をようやく言語化できています。この文章もライターさんに手伝ってもらわなければ、書くことすらできません。

ASDとADHDを併発していたぼくは、幼少期は支援級に通ったものの、そこの先生にすらお手上げされてしまい、不登校になりました。母の手にも負えないため、自宅で過ごすことはできず、心理室や保健室や病院や放課後デイをたらいまわしにされ、最終的には児童精神科に長く入院していました。

成人してからは就労移行やB型作業所にチャレンジしてみましたが「ほかのメンバーさんが集中できないから」と複数の施設を退所となりました。こんな状態では通常のアルバイトなんて夢のまた夢。いまは再び精神科に長期入院しています。

どこにも適応できず、ぼくの伝えたいことは伝わらず、ぼくのもつ障害はひとにとって「邪魔なもの」なのだと悟りました。この国の法律では尊厳死を選ぶこともできません。思考するという最後の手段を行使して守れる尊厳もなく、死ぬことすら許されない。いろいろなことを諦め、周りにできるだけ迷惑をかけないように過ごしていこうとした矢先に流行り出したのが「リカバリー」という言葉でした。

ぼくの入院していた病院や施設にはたびたび「ピアサポーター」が派遣され、彼らのはなしをききました。それはぼくにとって雲の上の成功談でしかありませんでした。たくさんの苦労があったことはわかります。それを否定はしません。でも、彼らはじぶんで言葉をつむぎ、じぶんの足で人前にたち、じぶんで未来を捕まえることができたひとたちじゃないかとおもったのです。ぼくからでた感想は「よかったね、ぼくよりマシで」というものでした。

ぼくがこれまで聞いてきたお話はいずれも「発達特性こそあったものの、どちらかといえばその後の学校や社会でのストレスが要因起因となり、精神疾患を発症して多くのことができなくなってしまった」という趣旨のものであり、多くの物語が理解あるだれかの支援につながったことで自分自身を省みて障害にふりまわされることなく求める未来をみていいんだということに気づいていきます。ぼくからすればシンデレラストーリーにほかなりません。

それでも重篤な病気を抱えてここまで回復したひとたちの姿がすこしでも希望にならなかったわけではありません。いつかぼくもあんなふうに・・・そう思い描いたときもありました。ぼくが壇上で人生を語るとしたらどんなものになるだろう。そのときぼくは「じぶんらしく」生きているだろうか。もしそれが可能なのだというなら、もうすこしだけ諦めず生きていてもいいのかもしれない。しかし、そんな浮ついた考えごと破壊してくれたのが「取り戻す」という言葉です。

ぼくには取り戻したいとおもうような生活はありません。重篤な発達障害も、劣悪な家庭環境も、うまくいかない人間関係も、ズタボロの身体も、最初からありました。どれも凄惨なものでした。ゆえに取り戻したい回復なんてものは、なにひとつありません。そればかりか、児童精神科に入院となり、ようやく身軽になったのか、母親は洗濯物をとりにくるだけで、ぼくとは一言も話さなくなりました。

「厄介払いができたのだな」と言葉もなく感じとりました。それからぼくは母親を母親と認識しなくなりました。おそらく相手もそうでしょう。この困難は神様が与えた試練でも親に責任があることでもなく、ただぼくという人間が背負って生まれたものだったのです。人生のはずれくじを引いただけ。

そんなぼくがなにを取り戻せばよいのでしょうか。物心ついたときから身体にはたくさんのサポーターとヘッドギアがかかせませんでした。それがなければ、癇癪で頭をうちつけて、とっくに死んでいたはずです。身体についた不気味な凹凸とアザの数々は、ぼくの脳がぼくの身体をまともにコントロールできないことを指し示しています。

もしも過去に戻って取り戻すことができるなら、ぼくは「生まれない」という選択を取り戻したい。死産でも流産でもいい。こんな想いをしてまでいきねばならないなら、この世に生まれたくはなかった。でもそんな願いをだれもリカバリーだとはよんでくれないでしょう。リカバリーは持って生まれたひとが再び栄光を手に入れるという贅沢にほかならないというのがぼくの考えです。

希死念慮がつよいわけではありません。この世界が嫌いなわけでも、こころが腐っているわけではありません。ぼくを取り巻く福祉も医療も最大限のことをしてくれているとおもっています。ぼくは周りにたくさん感謝しながら生きています。

出されたごはんはきちんと完食するし、薬を拒否することもありません。暴れたくなってもだれかを傷つけないようにじぶんの身体を鉄の壁に打ちつけます。衝動がおそいくるとわかっているときは、ナースコールを押して、拘束してくださいと願い出ます。そうやって必死にコントロールして生きています。ぼくはいろんなひとに「手に負えない」と言われながらも這いずり回ってでもいきているのです。

取り戻したいものなんてないけれど
手に入れたいものならあります

じぶんの言葉をじぶんのおもうまま書いてみたい。はなしてみたい。だいすきな歌をうたいたい。ヘッドギアやイヤマフなしでであるきたい。電車のなかでおおきな声をあげないで車窓から外を眺めて旅をしたい。知らない土地でパニックを起こさず新鮮な景色をたのしんでカメラにその景色をおさめたい。

街を歩いているだけで通報されないようになりたい。警察官に「また君か」なんていわれない生活がしたい。その日たべたいものをじぶんで選んで買いたいし、せっかく買った本を衝動的にやぶることなく大切に読み切りたい。ギターやピアノなどの楽器がやってみたい。静かなアトリエでひとり、満足するまで絵を描いてみたい。絵の具や画材を異食したり、安全上の理由で禁止されることもなく。

ひとりぐらしをしてみたい。家具家電をかいそろえて、じぶんのすきなグッズで部屋を埋め尽くしたい。漫画を大人買いしておおきな本棚につめこみたい。子どもの頃、異食防止で遊ぶことを許されなかったゲームで1日遊んでいたい。友好的なご近所づきあいもしてみたい。施設からかえってきたら晩酌をしたい。冷凍庫にアイスをかいだめしたい。買ったものを看護師にチェックされることなく部屋におきたい。貯金して高級なベッドをかって、ふかふかの布団で毎日眠りたい。

そしてときどきは働いてみたい。すこしでいいから社会の歯車になって誰かの役にたってみたい。すべてがあたりまえにできなくてもいいから、経験くらいはしてみたい。などなどと考えていると、ぼくにとってのリカバリーはやはり「取り戻す」ものではなく「手にいれる」なのだとおもいます。

「リカバリー」という言葉がきらいでした。

だからこのnoteであなたのきもちを綴ってくれないかと代表さんからお話をいただいたとき「ぼくにはできません」と答えました。ぼくには「リカバリー」の明るい側面がみえないし、回復してきたことを示すストーリーもないからです。ぼくの言葉は障害者をつかって啓発をおこなう多くの大人たちが忌み嫌うでしょう。けれども、代表さんはいってくれました。「わたしも取り戻すという意味でのリカバリーはすきじゃないですよ」と。

「取り戻せるものがないひとにとってはその定義は辛辣ですよね。わたしも過去を省みれば地獄の景色ばかりで、手に取り戻したいもののほうが数少ない。いまが一番マシなのかもしれません。リカバリーという言葉の定義にしばられることはありません。やってみたいこと、夢みること、あなたが頭のなかで考えていることはだれにも奪えません。わたしもリカバリーの啓発をやっていながらも、それが光の象徴だなんておもいません。光があるところに闇も生まれる。じぶんの闇を受け入れていく途方もない作業がリカバリーだとおもいます。その過程でじぶんなりの定義をみつけてもよいものだとおもいます。そこに、綺麗事は必要ありません

ぼくにとってこの言葉がどれだけありがたかったか。リカバリーを綺麗事として扱わなくていい。取り戻すことは贅沢だとおもったままでいい。そのうえでじぶんの言葉を伝えていくことが大切なんだと気付かされました。文章をうまく紡げないことを打ち明けると「文章は得意ですから大丈夫、手伝いますよ」と力強くいってくださいました。この文章はメールでのやりとりと、打ち合わせのあいだ、県を超えてまで病棟に毎週面談にきてくださった代表さんのおかげで完成したものです。

この内容をじぶんでよみかえしてみて、ひとつ感じたことがあります。リカバリーや、なにかを実現するということは、ぼくだけの力でなくてもいいのかもしれないということです。こうしてぼくの考えていることを一緒にかたちにしてくれることも、医療従事者が日常を管理してくれていることも含めて、たくさんのひとの力が重なってうまれていくものかもしれないとおもえたのです。

ぼくの文章をどんなひとが読んでくれるかわかりません。不快な感情にさせてしまうかもしれないし、悲しい気持ちにさせてしまうかもしれません。だけど、こうして精一杯いきているひとが世界にはたくさんいることをしっていただきたいのです。取り戻すべきものがない人間でも、なにかを求めていきていることをしっていただきたいのです。

おなじように悩むひとや、その周辺でこまっているひとにこの言葉が届くように願いつつ、ぼくのはじめてのナラティブを締め括らせていただきます。

語り部 すばる

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