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【掌編小説】 『さくら』

 母が心臓の病気になって手術を受けた。
 父が僕たちの元からいなくなって十年、ずっと働き通しだった母。どんなに朝から晩まで働いていても「大丈夫」としか言わない、そんな母が何週間も病院のベッドに横になっている。
 母が働くのはほとんど僕のためだ。地元で有名な進学校に何不自由なく通わせるため。二年後には大学にだって行けるようにさせるため。自分のことはいつだって二の次で、僕のことをとにかく母は優先させた。
『大学なんて行きたくない。先が見えない、自信がない。母さんのために何かしたい』
 自分のそんな胸の内に巣食っているモヤモヤを絶対に母に知られてはならなかった。母が悲しむ顔は見たくはない。じゃあどうしたい?母のために一体自分は何がしたい?
 いつものように僕はマスク越しの『ソレ』に触れながら、『ソレ』がいつも僕にとっての足枷になっていることを想った。進みたいのに進めない、もどかしさと自己嫌悪の象徴。
「あ!翔太、見て」
 母に不意に名前を呼ばれて、その細い指先が指す窓へと顔を向けた。
「ほら、桜の枝につぼみが出てきたよ」
 三階にあるこの病室の窓辺には大きな桜の樹が見えていて、枝が今にも窓ガラスに当たりそうなくらいだった。母の言うとおり、樹の枝のそこかしこからつぼみが小さな頭をのぞかせていた。
 けれど花が咲くのはまだ先のようだった。

    *    *    *

 嵐のように、突然その人はやって来た。
「姉さん!心臓病って大丈夫なの?まだ痛いの?あぁ姉さん、わたしずっと姉さんに会いたかったんだよ!」
 病室の入り口からズカズカと入ってきた、背が高くて髪の長い女の人。
 ごめんなさい、と叫ぶようにしてベッドの母に頭を下げたかと思うと、顔を両手で覆って泣き始めた。母はといえば、僕と同じように困っている。とにかくなだめようと伸ばした母の手が、けれどピタリと空中で止まった。
「よう…すけ?陽介なの?」
 覆っていた両手を引き剥がし、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で頷いたその人は、「そう、陽介。今はヒナになった」と言った。

    *    *    *

「じゃあ、高校辞めてうちを出ていってから東京にいたの?それから、その、手術を受けて…」
「夜のお店で働きながらお金を貯めてね。学生の時から想い焦がれてた正しい自分になれたのが五年前」
「正しい、自分…そう、そうだったの」
 母とヒナと名乗ったその人との会話から、僕は大まかなことは理解した。この人が母の弟、つまり僕の叔父で、でもそれは昔のことで、今は女性で僕の叔母ということになり。
「怒鳴られるのを覚悟で実家に顔を出したら、母さんがさ、姉さんが入院したなんていうから。父さんにも会わないで来ちゃった」
「母さん、どうだったの?あなたに何て?」
「抱きしめられた。怖がってたの、わたしだけだったのかな。父さんはどうか知らないけど」
 不意にヒナが僕の存在に気が付いたらしく、その視線を向けてきた。
「姉さんの息子くん、だよね?」
「そうよ。あなたの甥の翔太」
 ヒナは僕の前に立つと、背中を曲げてぐっと顔を近づけてきた。
「初めまして、翔太くん。わたし野崎ヒナ。太陽の陽に、菜の花の菜で陽菜。高校生?」
 頷くと、ヒナは唐突に言った。
「ね、マスク取ってみてよ」
 それだけは嫌だと思ったから、直立不動で立っていた。ヒナの手が素早く動き、その直後に僕の顔に空気が当たった。何が起こったのか咄嗟には理解できなかった。
 僕の顔からマスクが取り払われていた。そうしてヒナは『ソレ』をずっと見つめている。僕の右頬にある、五百円玉くらいの赤黒いあのアザを。自己嫌悪のその象徴を。
 ヒナが明るい声で言った。
「なんかさ、さくらの花みたいだね」
 そうして僕の右頬に指先で触れた。あまりに自然だったから抵抗することを忘れてしまったほどだった。ヒナの指先は温かかった。
「あ!おそろいだよ。ほら!」
 思い出したように、ヒナが長い髪を掻き分けて自分の首筋を見せてきた。
 タトゥーが入れられていた。ちょっとイカつい大人が入れているイメージの、あれ。
「わたしのなかでの自由の象徴なんだ」
 桜が咲いていた。ヒナの首筋にあったのは淡いピンク色の桜の花びらが、ひとつ。
 僕は自分の頬にあるアザを指で触って、
「自由の、象徴…」
 と、声に出して呟いた。なんとなく、このひとなら僕のくすんだ想いなんかを明るく笑い飛ばしてくれるかもな、とそんなことを思った。

(終)


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