悲劇の主人公

 自分自身を物語の主人公だと捉えている男がいた。
 物語の内容は喜劇ではなく悲劇だと信じて疑わなかった。
 自分の人生は他の誰よりも深い悲しみに満ちた人生であるという自負があった。
 男は自分が容姿端麗であると自覚していた。
 自分の容姿はほとんどの人間を魅了できると確信していた。

 男は自分の人生について語った。
 なるべく悲劇的に、なるべく同情心を誘う様に。
 何度も何度も。
 これまでの人生で経験した出来事を出会う人々に語った。
 自分に都合の良い部分だけを掻い摘んで話していることなど誰も気付かない。
 自身に降りかかった悪い出来事は全て、他の人間による禍なのだと騙った。

 いや、もしかしたら彼自身、騙ったつもりはないのかもしれない。
 心の底から、これまでの人生において自分に悪かったことなどほとんどないと確信していたのかもしれない。

 何故なら自分は悲劇の主人公だから。
 何故なら自分は特別な人間だから。

 彼はいつも口癖の様に「自分よりも他人のことを優先してしまうから」と語っていた。
 自分のことなど二の次、三の次。
 自分のことなど大事ではない。
 いついかなる時も誰かのことを優先してしまう性分なのだと。

 きっとそれは、悲劇の主人公としてあるべき理想の姿だったのだろう。
 せめて自分から口にすることが無ければ、それは事実だったのかもしれない。
 だが現実はそうではない。
 男は究極の自己中だった。

「他人のため」という言葉の裏にはいつだって「してあげている」という傲慢な思いが潜んでいた。
「自分よりも他人のことを優先してしまう」そんな自分に酔いしれているだけだった。

 男は愛を知らなかった。
 男は愛に対して過大な理想を抱いていた。
 自分を「愛している」なら、いつだって自分のことを優先するはずだと信じて疑わなかった。
 自分を愛しているなら「いつも他人を優先してしまう自分」を絶対的に優先する筈だと信じて疑わなかった。
 そんなもの、愛ではなく奴隷の様なものだというのに。

 愛に飢えた男は、自分の理想の愛を求めて身勝手に動く。
 こんなにも愛に飢えている自分なら、人よりも多くの愛を受け取るべきだと。
 一人の愛では満足できないと、二人三人とその数を増やしていく。
 自分は悪いことをしているわけではないのだから、後ろ指をさされる筋合いはないと開き直って。

 悪いことが起こればまた「悲劇」を振りかざす。
 男の本質を知った何人もの人間が、彼に嫌気がさして離れていった。
 それすらも男にとっては「悲劇」の一部でしかない。
 全て、全て、相手が悪いことなのだ。

 成長することも学ぶこともなく、男は何度も「悲劇」を繰り返す。
 皮肉にもそれは、限られた物語上の動きしかできない「悲劇の主人公」の様であった。


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