母の旅行 3度目

3度目の旅行は実現しなかった。

1度目は会いに来ると言う母を素直に受け入れた。
2度目は記憶に新しい幼稚な母を躊躇しながらも受け入れた。
3度目はもう、受け入れることができなかった。

同じように母から電話が掛かってくる。
「またお友達に誘われたんだけどー」

母の要求に躊躇し答えに窮する私。

「・・・え?駄目?」
「あんた達が駄目って言うなら断るしかないけど・・・・」
「ね?無理?いやーん。いいでしょぉ?」

ねだるような言葉を継ぐ母。

意味が分からない。
お友達に会いたければ会いに行けばいいではないか。

私が躊躇している理由を聞こうともしない。
母にとって重要なのは私が「うん」と言うかどうか。

母の要求スタンスはいつもそう。

父に対しては、私がおいでって言った。
お友達に対しては、娘に会えるから。
私に対しては、あんたが「うん」って言ったじゃない。
と。

誰かがいいと言ったから。
誰かがこうしろと言ったから。
誰かが駄目と言ったから。

判断には必ず責任が生じる。
昔から母は自分に纏わる責任をいつも誰かに転嫁していた。

責任は誰かが取ってくれるもの。
良いことは私のおかげ。悪いことは誰かのせい。
私の物は私の物。あなたの物も私の物。
自分にだけ都合よく。自分だけ大切に生きてきた人。

結局忙しいと言って断った。

予想通り母は私に責任を負わせる。
「あんたが駄目って言うからお友達の誘いを断ったのよ!」と。

責任を負いたくないから判断もしない。
だけど要求は我慢できない。
察して。察すべき!察しなさいよ!!
あんたのせいでお友達と再会できなかった。
そう罪悪感を負わせずにはいられない。
そんな人。

大学受験の時の話。
期も差し迫り志望校を決めている時に母が言った。
「ここいいんじゃない?お嬢様学校って感じで素敵。私、ここがいいわ。」

母が言う名門お嬢様学校は私の学力では届かない。

学校の三者面談で質問も相談もしない。
娘の偏差値にも進学先にも興味が無い。
先生を前に、ただお上品に対面するだけ。

母にとって大事なのは体裁の良い大学に娘が所属することだけ。
それが可能なのか、娘がどう思っているのか、先をどう考えているのか。
そんな目の前にある現実に目を向けることはない。

『私(母)が他所に自慢できる学校に行けばいいのに。』

それだけ。

私の大学受験に関して母が口を出しだのはこれだけ。
後は一切無関心。

昔から母はどこかで聞きかじったようなことを言っていた。

「私は子供の自主性を尊重してるから。」

自主性を培う子育てをしてきた母親が言う言葉だと思う。

子供の自主性を尊重どころか破壊し続けた母に適した言葉はネグレクトだ。

母は『自主性を尊重する』という言葉に責任を転嫁し、子育てを放棄していた。

母の言葉を受け私は九州の大学を受けないと決めた。

少しでも遠くに離れなければ壊れてしまう。
漠然と、だけど強く思った。

3度目で、ずっと変わらない母を受け入れる努力を止めた。

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