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「誰でもできるように仕事をする」が、呪いの言葉になってしまった。

―若いころ、仕事の引継ぎをしていた時のこと。
“あなたは自分の頭の中にすべて入れているの?仕事は誰にでもできるようにしなきゃ。”と言われたことが自分の中でずっと残っていている。

“誰でもできるように”“誰でもできるように”と、呪いのようになっている。
でも、それって、本当に、そうなのだろうか?-

障害福祉で働く女性たちの当事者研究の場での、ひとりの参加者の言葉。

―誰でもできるように仕事をするー

障害福祉に限らず、
わりとどこでも当たり前のように
言われているのではないだろうか?
私も言われたし、後輩にも言ってきた。
「休んだ時のために。」「異動もあるのだから。」
たしかにそう。

自分だって、いつ何があるかわからない。
その時のために、「誰でもできるように仕事をする」というのは、
一見、正しく聞こえる。

でも、でも…。

その、「でも、」を、掘り下げてみた。

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私たちの仕事は対人援助

まず、私たちの仕事は対人援助職である。
「この人への声掛けはこのようにしましょう」
とマニュアルで決めたとしても、
相手も人間であり、私も人間である。
同じ声掛けをしても、「同じ」ではない。
違う人間が声を出しているのだから。

そう言えば、若いころ、実習に行った自閉症の人が暮らす施設で、
「この人たちは、“野菜が大きくなってうれしいね”とか、そんな気持ちわからないんだから、混乱させるので言わなくていい。」
と指導者に言われて嫌な気持ちになったことがあったのを思い出した。

「この人の声かけの仕方はこうです。」
とマニュアルで決めてしまうと、いつでもどこでもだれでも、
同じ声をかけることになる。でも、相手も私も人間だ。
声掛けしている人間が違うのだから
同じ声掛けでも相手の感じ方は違うはずだ。
私がいま、目の前の人に「かけたい」と思った言葉を選んだらダメなのだろうか?
そんなことしていたら、私たちは仕事がおもしろくなくなってしまう。

もちろん、基本的な障害理解のない声掛けや、
人権侵害になる声掛けはあってはならない。
だから、私たちは、「記録」をつけたり、「実践検討会」を開いたりして、
何度も何度もお互いの仕事を吟味する。
そして、“当たらずとも遠からず”の支援を探りつつ、
その精度を上げていく。

私たちの仕事はその繰り返しだし、
だからこそ、いつも新しい発見がありおもしろい。


「福祉の周辺」から見た「福祉」

少し前に、SOCIAL WORKERS TALK 2020 「福祉の周辺」vol.1
というオンラインイベントに参加した。
がっつり「福祉ど真ん中」にいる人たちではなく、
「周辺」にいる人たちから
「福祉」がどう見えているのかを学ぶようなイベントだった。


⻑野県軽井沢の診療所「ほっちのロッヂ」の紅谷先生が言われていたことで、ここまでの話につながるようなことがあった。

「職員も、それぞれ得意なことや好きなことがあるのに、
なぜか、医療や福祉の仕事をする人は
”平均的に誰でもできる仕事“に均そうとする。
料理が好きな人は料理をすればいいし、
苦手な人はほかのことをすればいいのに。」
というようなお話だった。

他の参加者の話も総合して考えるに、
福祉に積極的にかかわってこなかったけど、
社会の課題が気になっている「福祉の周辺」にいる人たちは、
どうも、この
「福祉をしている人の顔が見えない感じ」に、
つながりにくさを感じるのかもしれないと思った。


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“誰でもできるように”仕事をすることの弊害

“誰でもできるように”仕事をすることの弊害が見えてきた。

〇働くものが顔の見えない取り換え可能な存在になってしまう。
〇この仕事をしている人に魅力を感じず、就職希望者が減る。
(取り換え可能な人間に魅力を感じない)

「休めるように」「組織として仕事が継続できるように」
そのために、誰でもできるように仕事を作る。
しかし、一方で、ひとりひとりの人格を消してまでそうすることで、
傷つく人、やめる人、仕事をおもしろく感じない人、
そして、就職先に選ばれないこと…。

どうも、私たちの仕事には、
“誰でもできるように”という部分と、
“自分の人格で相手の人格と出会う”部分が
あるのではないだろうか。

自分の人格で相手の人格と出会う仕事

この仕事は、「自分の人格で相手の人格と出会う」
要素が大きい仕事であり、
それこそがこの仕事の魅力でもある。

そのことに魅力を感じて、この仕事を選んだ人が、
“誰でもできるように”
“交換可能なように”
と言われると、
この仕事に魅力を感じなくなってしまう。

でも、一方で、仕事はチーム(組織)でみんなでしていることなので、
もし、自分がケガをして休んでも、
誰かが支援を届けられるようにしなければならない。
他の人でもわかりやすいように、
仕事を「整理整頓」をするのは大事なことである。

そうだ、整理整頓だ。


これは、整理整頓の話だったんだ。

“自分の人格で相手の人格と出会う”この仕事の魅力は大切にしつつ、
整理整頓する。

これからは、
「誰でもできるように仕事をする。」
ではなく、
「他の人がしやすいようにわかりやすく整理整頓しましょう。」
と言いかえよう。

な~んだ、すっきり!

うん、すっきり。すっきりした…。

すっきりしたけど…でも…、なんで?

なぜ、「整理整頓の話」が「呪いの言葉」に?


こういうことではないか。

「誰にでもできるように仕事する」ということが
 =自分(我)を消さなければならない。 と、感じてしまう。
 =自分の感性や思いを表現してはいけない と、感じてしまう。

そう感じてしまい、くるしくなったんじゃないか?

それはなぜなんだろう?

「もしや…?この言葉を意図的に使っている人たちがいるのでは?」
話し合いの中でそのことに参加者が気づき始めた。

使いやすい人

=自分(我)を消して働く人
=自分の感性や思いを表現せずに働く人

こういう人を使いやすいと思って、
こういう人になってもらうために、
この言葉を使う人がいるのではないか?

しかも、使っている人も、その意図に自分で気がついていない。

障害福祉の世界だけではなく、大きな力として、
いま、社会全体で「取り換え可能な労働者」を作ろうとしている。
その大きな力の影響を受けているのではないだろうか。

ー「取り換え可能な労働者」と、「余人をもって代えがたい権力者」

この構図の中に自分たちが巻き込まれているのではないか。
そして、
「取り換え可能な労働者」になるのは女性が多く、
「余人をもって代えがたい権力者」になるのは男性が多い。

福祉の仕事は、業種全体では女性のほうが多いのに、
管理職になると男性のほうが多いという、
「偏り」が大きい職種である。

「取り換え可能な労働者」と「余人をもって代えがたい権力者」の差が大きいほど、ハラスメントが起こりやすい構造になる。

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「誰でもできるように仕事をする」
という言葉に縛られてしまっていた背景には、
こういう「見えにくい構図」「自分を消そうとする大きな力」
を感じ取っていたということがあるのではないか。

そのことに気がついて、
「そういうことか!」とわかってスッキリするとともに、
その問題の根深さを感じ、
「また新たに見えてきたことを、次回に話しましょう。」
とその日の「障害福祉で働く女性たちの当事者研究」を終えたのでした。


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