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磨いた鍋に猫がよる

銅と鉄フェチの日常

道具についてひどい癖もちの日常は、傍からみれば理解しがたいものである。台所に3時間もこもって鍋を磨き続けるすがたは奇妙でおよそ見ない方がよい姿であろう。メラミンスポンジなどは使わずにボロ布に所定の磨き粉を付けては磨く。銅には銅の、鉄には鉄のセオリーがあり、決して同等の扱いをうけることはない。
特に鍋釜の類は大切にされる。鉄製品は火にかけて良く乾かす。後にわずかにオイルを含ませた布で仕上げる。このオイルの匂いに猫がよる。鼻ををくっつけて匂いを確認して回る。舐めないでくれ!せっかくの光沢が失せてしまう!

たかが鍋されど鍋

ひとり暮らしの間に増えた道具類をもって実家に戻ったのは40歳にならんとする年のことだった。真っ黒な鉄鍋、銅の大鍋、檜のまな板、本格的蒸籠、巨大な味噌甕、レードルからスパチュラに至るまで家庭用の物はなかった。実家の台所にはすでに一式あるのだから収まる場所が無いそれらは私の寝室に鎮座していた。どっしりとした金属の塊を見ているとなぜか心が安らぐ。
金属の塊が好きだ。しっかりとした自己主張をもった金属の質感は答えねばならぬものとして存在する、触れるべきものなのだ。
元はといえば地球の地肌に偏在する貴重な物質なわけで、しばしこの人間の生活のために拝借しているのだから、大切にせねばならないという思い込みもある。鍋となく刃物となく金属の放つ美しさは私を魅了する。

そもそも徹夜が続くような職種であったので自宅で料理をする時間は限られていた。しかし、台所で出番を待つ者たちの無言の圧力は私をどうにか栄養失調にしないでおいてくれた。週に一度大鍋で煮込んだ野菜を冷蔵庫へストックして小出しに食べてしのいだ。切った野菜を煮るだけのために銅製の大鍋が繰り出される。料理をした気にもなれたし、それだけで楽しい時間である。美しい道具がもたらす幸福な時間は殺伐とした日常を一瞬で潤いのあるものへ変えてくれていた。そう思うとかの金属の塊たちも私にとっては大切な戦友といってよいのだと思う。
あれから十数年、今も私を見守っていてくれる。

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