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「あまえ」から成り立つ日々の愛おしさ

私の中の子育てのテーマは「あまえ」かなあと思っている。

「あまえ」「わがまま」「好き放題させること」など、なかなか境界線が難しくって、どこまでのあまえを許す、許さないって出てくるかもしれない。

でも、家に帰ったらあまえられる人がいる、あまえても許してくれる人がいるという体験は大切にしたい。

私と子どもたちとの日々は「あまえ」で成り立っていると思う。私は彼らをとことんあまやかしている。彼らはとってもがんばってくれている。

個人的な意見だけど、外でがんばるためには、家ではとことんわがままでいいと思っている。すっごい悪いことばを使ってみたり、ゆるされる範囲でケンカしたり、いたずらしたりするのも家の中だったらなんでもしてみたらいい。きょうだいでするケンカは、激しくて、他の子同志だったらすぐにとめに入っちゃいそうなレベルでも、まあいいかと思って俯瞰してみている時がある。とことんやって、何かを学んでほしい。

あまえるということは、存在を認める、許す、ということに繋がり、自信になる。きっと外でとことんがんばる力になる。
だから、家ではとことんダメな自分を出してもいいんじゃないかな。
私は、それを許し、認める存在になりたい。
子どもたちにとって、それはきっと大きな力になると思っている。
何かを失敗しても、戻る場所があるって素敵なこと。

これはおそらく私がそのように育てられてきたからだろう。

「実家があるうちはあまえていいんだよ」と、両親も既に他界し、実家もなくなってしまった母は言う。
実家が遠方なので、なかなか実家には帰ることができていないけれど、実家に帰れば、なんでもやってもらおう、とかきっと助けてくれる、話を聞いてくれる、許してもらえる、という安心感がある。

親とはきっと今くらいの距離感(物理的&心理的に)だからこそ、許されることなんだろうなとも思っている。そして、それはお互いに理解しているからこそ、「あまえ」が成り立っていると思っている。

「あまえ」を受け入れることは、自分の愛を相手に注ぐことにもなるから、自分の中の愛を満たすことは、忘れないようにしようと思っている。
自分の心にある、命の水を補給し続けることは、とても大切なこと。信頼できる人に話を聞いてもらったり、本を読んだり、空を見上げたり、深呼吸をしたりして、自分の心が元気でいられるようにしてあげたい。

「あまえ」に関しては、奥深く、自分の行いが正しいのか、度を越しているのか、はたまたちょっとよくないのかなんてわからない。
これからも追求していきたいなと思っていること。

「あまえ」によって成り立っている日々を愛おしく思っている。
今日も「あまえ」を許す自分でいよう。


今日も読んでくださりありがとうございました。

そら


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