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憑依現象についてどう考えるか:理論と背景編 ―その1―

「憑依現象」の体験を語る前の、前提知識と世界観を書く理由

今回は怖い話やスピリチュアルで取り上げられる、「憑依現象」について考えてみたいと思います。というのも、私自身や妻、息子が霊能者やとある臨床家に「憑依されている」ということを言われたことがあるからです。

最初は一笑し、忘れようと思てっていたのですが、「憑依」について語る霊能者や臨床家は大まじめで、それで生計を立てているわけです。

このようなことはあまり日常生活で経験できるわけでもないし、このような経験があっても誰にも話せず人知れず悩み、苦しんでいる人が多くいるのだろうと思うと、真剣に考察する価値はあるとずっと思っていました。

とはいえ、この現象をただ単に既存の科学的学説や知識で、無理くり説明しても何も進歩はありません。

おそらく多くはプラセボや、霊能者側の歪んだ認知や思い込みに、被験者が巻き込まれた、といういつもの解釈で終わってしまいます。

それでは面白くありません。

科学の立場の言い分と、スピリチュアルの立場の言い分を理解したうえで、その二つを抱合する視点から語ることで、一人一人と社会が大きく前進するきっかけになるのだと思います。

そのきっかけに今回の記事が繋がればと思い、自分の家族の体験を少し書かせてもらおうと思った次第です。

しかし、科学とスピリチュアルを抱合する視点から、カルト現象のような憑依現象を理解するには、背景の世界観や知識の理解が必要です。

そういうわけで、憑依現象を考察するうえで、必要となる世界観を今回二回に分けて配信した後、自分の憑依現象の体験を事例考察できたらと思っています。

世界はそもそも幻想

ホログラフィック宇宙論では、この世界はすべて映画やゲームのようなデジタルで構成されたものだと主張します。

例えば、パソコンのディスクトップで、削除したいファイルをドラッグして、「ゴミ箱」にドロップすると、そのファイルは削除されます。

「ファイルをゴミ箱に捨てる」という、一連の視覚的操作は本質的なものではなく、あくまで「ファイルを削除する」ことが目的です。

ディスクトップのゴミ箱にいらないファイルを、ドラッグ&ドロップする作業は、ユーザーが、あくまでファイルを削除したことを理解しやすくするための、視覚的処置です。

この例ように、現実の世界は映画マトリックスのように、視覚的には5体の体を持つ人間が、結婚し、子どもを作り、働き、社会を回し、年を取っていくというそれぞれの物語(ストーリー)がありますが、それらはすべてプログラムだということが分かります。

私もあなたも、友達も、奥さんも、上司も、現実世界では手足、頭を持つ人間の体をもっていますが、それらの心身は、この世界で何らかの情報処理を行うためのの分かりやすい記号といえるわけです。

喜怒哀楽という感情も、お金儲けや出世、地位や名誉、美しく若々しい容姿というアバターが作り出す物語と価値観は、生物学的観点からすると、その目的は、優秀なDNAを作って後世に残すためのオプションでしかありません。

「生物学的観点」という物質的な視点では遺伝子の進化と保存がその目的ですが、考え方、文化、価値観といった「ミーム」という情報的視点や、それらよりもより抽象度の高い「霊的視点」での目的はそれぞれ異なるでしょう。

いずれにしても、私たちが「現実」だと思って五感で認識し、体感できる身体と世界は、すべて幻想であるということが言えます。

そして、このことは仏陀の「空」や「非二元/ノンデュアリティ」の主張と通じるものがあります。

幻想の世界を構成させている関数f(x)

私たち生きている世界は、ホログラフィック宇宙論や非二元的観点、仏教の空の観点からは幻想であるということを見てきました。

では、その幻想(ホログラフィック)を構成しているものは何でしょうか!?

先ほどのパソコンのディスクトップ上で、いらないファイルを削除する手順として、ファイルをディスクトップの画面上の「ゴミ箱」に捨てるという視覚的過程の背景には、

「ファイルを削除する」という目的があり、そのためのプログラムであるアルゴリズムが存在しているのです。

私たちの心身は、このホログラフィーの中に存在しているアバターです。

このアバターはゲームの中の登場人物のように、性別、能力、性格、感情の在り方、考え方など様々なパラメータ(変数)が存在します。

これらのパラメータは、その人なりの個性としての一定のパターンがあり、何らかの関数(functional)(数式f(x))として表現出来るでしょう。

映画マトリックスのように、この世界の全ては何らかの数式コードで描かれており、

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この巨大な数式コードの中の一部分として、私たちの体も数式コードで描かれています。

例えば私の心身のコードが「f(x)=aX+Z」というような何らかの関数で表記されるとしても、その表記上の数式は記号であって本質ではありません。

そのアルゴリズムでもあるf(x)は数式として書き出すことはできても、目に見える現実世界世界で実体化することはできません。

出来たとしても、それは数式のように何らかのシンボルであり、実体ではないのです。

説明がややこしくなりましたが、簡単に言うと私たち一人一人の存在は、何らかの「数式」として表現できる、ということです。

その数式の結果として、様々な容姿や性格、能力が現実として見られるホログラフィック(映画ではマトリックス世界)に現れているということです。

哲学者プラトンの「イデア論」

洞窟の比喩の中ではまず人々は地下の暗い洞窟の中で縛られ、洞窟の壁に向かされています。プラトンは洞窟に縛られた人々を囚人と呼びました。その壁の後方遥か上空にはギラギラと輝く太陽があり、囚人たちは太陽に背を向けています。                                           洞窟の入り口には様々な物が運ばれてきては通り過ぎていき、その度に洞窟の壁にはその影が写ります。                                                                        囚人たちは壁に向かって縛られているので、彼らはその影を見ることしかできません。そのためその影を見て世界とは”こんな形をしているのだ”と認識するほかありません。                                囚人たちにとって世界とは壁に映る影それだけであり、生まれてから今まで洞窟の壁しか見たことがないのでそれが何かの影であると認識することすらできません。それ故に、壁に向かって縛られていることは彼らにとって苦痛ではなく安住でもあります。                              そんな安らかな囚人に対して突如として”解放者”が現れます。解放者は囚人を束縛から解き、無理やり洞窟の外へ引っ張り出そうとします。                今まで洞窟の影しか見たことのない囚人は背中でしか感じたことのなかったギラギラとした光を直接見てしまったことで目が眩みますが、解放者は容赦無く洞窟の外へ引っ張っていきます。                          ゴツゴツとした洞窟の壁を無理やりに登らされ、ついには外へ出されてしまった囚人は初めて”外の世界”を見ることになりました。                   しかし、これまで影しか見たことがなかった囚人は外の世界を正しく認識することができません。彼はこれから時間をかけて少しづつ、まずは自分の足元の影から、そして水面に映る自身の鏡像、果ては物そのものへと次第に目を慣らしていかねばならないのです……。                           ここで語られる”囚人たち”は無教養な人々を指し、洞窟の壁は無教養な人々の認識する世界です。対して”解放者”は哲学者を指し、洞窟の外は実在の世界であり物事の真実を見ることができます。                            物事を映し出す光は太陽であり、その太陽は”善”の象徴です(プラトン《国家(第6巻)》「太陽の比喩」)。善と真実へ導くための作業、すなわち外へ引っ張り出す解放者による作業はいわゆる「哲学者による教育」であり、洞窟の外を知りまた知ろうとする者が再び洞窟の中へ入り人々を導こうとするのです。https://akirako.com/meme/?p=2198

プラトンの「イデア論」でいうなれば、洞窟の中の影絵がコンピュータで表現された様々なグラフィック(マトリックス世界)で、影絵を発生させている太陽の光が「関数の世界」、というようなニュアンスで考えていただければとおもいます。

→その2に続く

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