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「〇〇〇〇」肯定派、否定派を超えたところで。

人間だけが「価値観」と「考え方」を持つ

地球上全ての生命は親戚で繋がっている、という事実を人間は発見しました。

単細胞生物から進化の過程を経て、人間にまで至ったのですが、人間と他の動物の違いは、「物語」を持っているかどうかだといえます。

人間とは、とどのつまり、どのような人生を歩んだのか?という物語がその人をその人として定義しているようなものです。

その物語とは、考え方や価値観というフレームの中で展開されています。

その人間がどんな視点で、どんな価値観と考え方をしているのかというベースの枠組み(フレーム)があり、

そのベースがそれぞれに合わなければ離れていくか、争いが起こります。

ベースが合えば仲良くして、心地よい時間が過ぎてゆきます。

人間の歴史はその価値観のせめぎあいの中で、様々な物語が展開してきました。

だから歴史観によっても、距離が殆ど離れていない隣国と全く異なることもあれば、

地球の裏側の価値観でも会う場合は好ましい外交関係を結ぶことが出来ます。

様々な価値観が流出する現代

しかしこの数十年、IT技術の進歩により異なる価値観が、無数に遭遇する機会に恵まれることになりました。

そうすると、同じ家庭にいても、一人一人がスマホの端末から無限の情報にアクセスできるので、家族でも同じ考えと価値観で統一することが困難な時代になっています。

それは大切なテーマであればあるほど、その価値観が離れていると、争いが生じる可能性があります。

例えば、子育てにおいての価値感のズレでの摩擦はよくあることです。

また、最近ではワクチンを接種するかしないか、ということについての議論で家族の中での考え方のずれから、家族関係がギスギスするという話題を聞きます。

未来は不確定で、何が正しいか間違っているかは、厳密にいえば今の時点ではほとんど分かりません。

昔のように、強い者が他の者を一つの価値観に押し込めておく、ということはもはや不可能になりました。

やろうとしても、SNSの拡散で独裁的な思想と価値観の統制は暴かれてしまいます。

結局個人個人の人間は、中央集権的、独裁的なシステムを最も嫌うからです。

その反面、今日のようなパンデミックの様相では、中央政権的な一斉指示で群衆を引っ張る力もどこかで期待する空気もあり、

個人の心情と集団の動きとの間に、大きなストレスがかかっています。

「価値観」と「考え方」を超えた「場」を意識して繋がる

僕はプロフィールでも書きましたが、家庭環境の影響で、生まれ育った環境は何らかの宗教的な考えが常に家を支配していました。

入信する宗教もコロコロ変わるので、価値観や考え方がその都度変わっていました。

思春期を迎えると、宗教というものに、強い反抗を示していた時期もあったので、その時は無神論者で無宗教者だと自分を思っていました。

さらに青年期では、宗教というよりは、哲学的な視点から仏陀やキリストに強い関心を抱くようになりました。

今はサイエンスとスピリチュアルを含んで超えた領域にすごく関心があります。

この過程で自分は考え方と価値感が何度も変わっていく経験をしています。

例えば小学校の時は神様がいて、一人の人間が良いか悪いかの評定を下し、悪ければ死後に地獄行き、という考え方をしていました。

青年の時は、そのような神の存在は全くのフィクションだと確信していて、生活していました。

青年期の僕は、小学生の時に熱心に宗教を信じていた自分に強い嫌悪感を抱いていたのを思い出します。

自分の黒歴史として、小学校時代を認識していて、タイムマシンがあれば過去に戻って幼い自分自身を断罪したい、本気で思ったものでした。

しかし、考え方と価値観は違えど、小学校の時も青年の時も僕は僕でした。

タイムマシンが仮にあって、本当に青年期の僕が小学生の僕に傷害を起こしてしまっていたら大変です。

成長すると体つきが変わるように、考え方と価値観も変化するのが自然です。

幼いころの体が小さい自分を誰も「悪い」とは思いません。

考え方や価値観が変わることは、自然な成り行きです。

こう表現すると、考え方と価値観に成熟度はあるのか!?というテーマにぶつかります。

ケン・ウィルバーのインテグラル理論では、

より進化した思考形式は、以前の進化の段階の思考を

「超えて含む。つまり、以前の考え方、価値観を認めた上で超越した、思考形式を持っている」

といいます。

先ほどYUTUBEで「ワクチン否定派と肯定派が話し合う番組」がありました。

話し合いは平行線をたどりましたが、

この番組が素晴らしいことは、お互い冷静にそれぞれの考えをリスペクトして、お互いの意見を表現しあえているところに感動しました。

今後の状況で、お互いの意見が入れ替わるほど変化があるかもしれませんし、そうでないかもしれません。

私達は、考え方と価値観を超えたところで繋がっている、ということを忘れなければ、

どんなことでも乗り越えられると思います。

考え方と価値観を超えたところといえば「命」という言葉が浮かぶ人も多いでしょう。

では「命」とは何なのか!?

となかなか定義できません。

人間にフォーカスしていえば、身体を永らえさせることだけが命ではありません。

そうなれば、脳と心臓に栄養を点滴するだけでその目的は簡単に達成されるからです。

では「考え方」と「価値観」も命と定義するなら、それらは命の一部だといえます。

「考え方」と「価値観」つまり「心」、そして「身体」のみを人間と定義するならば、

サイボーグに考え方と価値観をインストールすればそれらは生命現象なのか!?という根源的な問いかけが生まれます。

では「魂」なのか!?という話になると、「魂」の定義は現代では定義不能です。

「心」と「身体」をつなぐ「意識」、この三位一体を意識して、

「心」(つまり「考え方」や「価値観」)を超えた部分を意識してコミュニケーションしないと争いと分断は永遠に続くのだろうと思います。

この作業を続けた先に、新しい、進化した思考システムが誕生するのだと思います。

自己責任という言葉に違和感

最近は自己責任という言葉が流行っているように思います。

「自分で調べて自分で責任を取る」ということなのですが、

本質的な意味合いは、自分で行った行為による結果を「受け入れる」ということだと思います。

しかし、

この言葉を丁寧に理解しないと、

自分で意思決定して都合の悪いことが起こっても、あなたの責任なので知りません

と解釈する人も多い気がします。

この情報化時代、

自分で調べるという能力や機会、資金も個々によって異なります。

僕の息子は偏りの強い学習障害ですが、文字を読むことに非常に困難さを持っています。

このように先天的に情報収取能力が苦手な個人は山のようにいるはずです。

また、前述したように、人間は必ず間違え、かつ意見や価値観、考え方は変化していく生き物です。

だからそのセイフティーネットが社会保障になっている、という意見もあるかもしれませんが、

それはシステムとしてとても価値があり重要な側面ですが、あまり温かみを感じません。

温かみを感じないと、どこかに社会や人生において恐怖を抱え込むことになります。

そうなると、その恐怖は人と状況によっては極端に大きくなり、大きな問題に発展します。

個人個人の人間の繋がりが前提である、という認識がとても大事です。

近年は、一人が成功する、勝利するという価値観が薄らいできている

このSNSのnoteでも、自分一人だけで成功するということよりも、

みんなで繋がり、みんなで助け合って成功する、という価値観を多くの人から見かけ、とっても嬉しい気持ちになりました。

時代の流れとして、これからはそのような流れが顕著になってくるのだと思います。

人間の認識能力には限界があるので、多様性のある「価値観」という窓で世界を見て、

みんなで進化し、成長するという姿勢がとても生きやすくなるのだと感じています。

なので、価値観と考え方で人と人が離れるのはもったいなくて、

お互い「手分けして」探求してみて、困ったらそれぞれが助け合って、

また異なる価値観でお互いを尊重しながら選択を行っていくという姿勢が大切なのかなと思います。

「失敗しても誰かが見てくれているし、成功しても誰かが見ている。

その理由は、自分も誰かの成功と失敗がいい意味で、気になるって見ているから。

自分は人間で、人間とは本来そういう本能を持っていて、

自分がその欲求を持っているということは、

つまり

他者も同じような欲求を持っているということが分かるから。」

という自分の本性が保障になった社会が次世代の文明なのかもしれないなと思っています。






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