就学相談で、相談を受けに行った際「支援学級なんかに入ったら、人生終わりですよ。」と言われた件についての相談 ーその1ー
『5歳男児(知能指数70~80、診断「情緒障害」、マイペースで、こだわりが強い。)
就学に当たって就学相談を受けに行った際、特別支援学級に進学しようかを相談したら、「支援学級なんかに入ったら、人生終わりですよ。」等と言われ、とても不安になった。両親で話し合い、入学の際には普通学級に進学することにしたが、今後、普通学級で過ごす事が難しくなってきた場合、どうすればいいのか?』
―質問に答える前の背景として・・・
ご質問どうもありがとうございます。相談者さんの質問に似通う内容のご相談は、数多くみられます。ということは、相談者様のようなお気持ちを抱えているケースは日本では相当数いらっしゃることも推察されます。
私自身、息子の状況が、就学前の検診での観察状況では知能指数で言えば境界域(70代程度)で、読み書きが全くできず、手先の不器用さや体のぎこちなさなど、全体的な発達傾向にもかなり偏りがある状態でした。
集団での指示はもちろん、簡単な指示もなかなか理解することができない状態でした。そのため、通常学級か特別支援学級に行くかで迷っていました。また、私自身の職業柄、毎年同じ様な悩みを抱える相談者と一緒に相談をしています。
今回の質問に対する解答では、一般的な専門家(公認心理士・臨床心理士)としての意見と、その「専門家」という視点を超えた領域からも、解答を考えてみたいと思っています。
と言いますのも、保護者が考えるお子様の進路は、就学後のことのみならず、小学校を卒業し、中学以降の進路や就労、果てはその後の人生にまで思いを巡らし悩むものであることが前提である一方、諸所の専門家の意見は、就学した後の長くて2~3年の範囲での見解に比重を重きに置き、小学校卒業後や、まして義務教育を終えたのちの進路についての示唆については、ほとんど想定していないのが現状だと思います。
つまり、専門家の認識範囲と保護者の認識範囲に大きなズレが有り、本質的に噛み合わないことがよくあります。また、発達障害への見識については、専門家は現在における標準的な知識と理解はあるものの、実際にはまだまだわからないことが沢山ある世界です。
神経発達障害(以下、発達障害と記載)を理解する本質的な意味合いは「人間とは何か!?」という膨大なテーマの中心に繋がることでもあると私は思っています。つまり、神経発達障害が全て「わかった」人は過去にも誰にもいないだろうし、今後もいないだろうということです。言い換えると、発達障害には常にわからないことがあるということは、「常に可能性と何らかの希望がある」ということにもなります。
発達や心理学、医学の専門家においては、それぞれ得意な領域分野があります。そして、得意な領域以外の分野になりますと、ITの普及が進んだ現在、専門家よりも、相談者である当該ご本人の方が知識量が多いことがあります。これは、当たり前のことなのですが、自分自身のことや自分の子どもの障害については、自分自身のこととして必死に情報を収取して学ぶからです。スマホの普及により、誰でも一定の情報にアクセスできる今日、当事者だからこそ、その学びへの真剣さは誰にも負けるはずがありません。それは自分や家族の人生や命がかかっていることだから当然のことです。
にもかかわらず、発達や医療現場の診察や相談場面では、慣れ親しんだ慣習から専門家の意見が相談者の見識よりも上位に置かれてしまうように感じられます。これは専門家という権威への忖度が無意識にそのような認識を生じさせるのです。こうして専門家と相談者との間で、知識の差において「ねじれ構造」が生じやすい状況になっているように感じます。
この傾向は潜在的に何年も前からありましたが、今回のパンデミックの件で、ますますこの状況が明らかになってきました。
こうなると、専門家は相談者に慣習的にマウントを取ってしまう傾向がありますが、相談者の方がより情報を持っている状態だと、専門家と相談者と間に不信感が流れてしまい、問題の解決が遠のきます。
このような状況は、誰に責任がある、などと言った「悪者探し」をする前に、「急速にITの技術革新が進んでいる時代の副作用であること」として認識する必要があるかと思います。
そしてセンスがあれば、専門家と同じような結論に素人が到達することが可能な時代になっているのでしょうし、その傾向は今後ももっと加速的に進んでいくと思います。
そして、このような背景故に、どの分野でもそうですが、特に医療や子育て、教育や療育という分野においては「自分自身が自分自身の専門家である」という認識が非常に大切になって来ると思います。そしてそれは子育てにおいても同様で、「お子様の状態については専門家の方が全て知っている」という考えよりも、専門家の見識も数ある見識の中の1つだという認識が大切になってくるかと思います。
もちろんこれから語ることについても、同様の姿勢で読んでくださると幸いです。
次回に続く・・・