人生を楽に愉しくする「気づき」と「感謝」という能力は練習すれば伸びる
脳の発達
私たちの人生は、主に左脳が創った時間というシリアル(直線的)なレールの上を生まれたときから死ぬまで、否応なしに進み続けます。
その過程で人間を含む生物は、自身の身体をより永らえさせるために、本能的な機能を発達させています。それは遺伝的なメカニズムで、何か危険や危機があれば避け、肉体の機能維持のために食料を安定的に求め、病になれば回復するような働きです。
これは考えなしに本能的に起こっています。
そうして自身の遺伝子が残り続けるように、より優秀な遺伝子と交配することで生存の確立を飛躍的に向上させてきました。
より効率的にその生存確率を上げるため、言い変えるとより優れた遺伝子を残すために前頭前野は発達します。つまり人間特有の前頭前野の発達は、まだ来ぬ未来についてより安全で安定した生活が送れるように、過去の経験則から推論するということを行います。
それは、現実の今ここにはない頭の中の情報空間での過去や未来についての推論です。そうして情報空間を他者と共有することで、共通した意味の場を作り上げ、他者と協力することで自身の生存率と快適さを手に入れてきました。
そうした前頭前野を発達させてきた人間の歴史の中で、その行動原理の動機を見てみると、不安や恐怖という情動がベースになっていることが理解できます。
人間は、頭脳の前頭前野を発達させることで、生活が快適になり、地球環境を変化させ、文明を築いています。しかし快適になったのは一時的な不安や恐怖を避けるための対処療法にすぎなかったことが今になって人類全体で気がつきました。それらの行為は問題を先送りにしていただけだと分かりました。
私たちは発達した前頭前野を、過ぎ去り偏った解釈を基にした過去の記憶から、まだ来ぬ未来への推測を立てて、現実世界を変えようと様々な手段を講じてきました。しかし脳は偏った一部の情報しか記憶に出来ないので、その記憶に基づいた未来への予測は、実際のそれとは異なるのは当然です。
そうして私たちの日常は、一見過去100年200年前よりも豊かで快適なように見えますが、潜在的な不安と恐怖は拭い去ることが出来ていません。
しかし過ぎて存在しない過去と、それに基づいた未来という幻想のベールを取れば、目の前には豊かな世界が広がっていることに気がついている人々もいました。
多くの人は、彼らのことを賢者や聖者と呼びました。彼らのことを頭脳で理解しようとするー(つまり不安や恐怖から逃れようとする思考回路で解釈する)ーとその彼らへの正確な理解も最初からずれたものになってしまいました。
つまり、聖人や賢者の教えを得られれば不安や恐怖から逃れられるというわけです。その解釈は半分は正解でしたが、残り半分は間違っていました。
何故なら、『もともと私たちは豊かな生(ライフ)の中にいるということに気がつくだけだ』というのが彼らの教えの中核だからです。『私たちは欲しいものをすでに持っていた』という気づきから人生は始まると彼らは言います。
目の前の芳醇な豊かさとは
例えば、今この文章を見ていることが出来る、ということは正常に機能している眼球があり、日本語を理解する脳が正常に機能している証です。そして心身共に健康でなければ、こんなややこしい文章を読んでいる余裕はありません。
その健康な体は、「自分」が一人で維持しているものでしょうか?その眼球や脳、五体の体は、両親や先祖、そのまた受け継がれる生命のドラマがなければ存在していません。
何一つ自分自身で創った臓器はありません。全て先祖から受け継がれたものです。
また、パソコンやスマホでこのテキストを読んでいるのならば、それらのデバイスを購入することが出来るための収入源となる仕事。また、パソコンやスマホを創った工場や電力会社、電化製品を創った様残な人々やインフラ。
パソコンやスマホを創ったスティーブジョブズ、ジョン・フォン・ノイマンという天才たちの独創的な発想、マイクロソフトやアップルといった企業・・・ここに上げた以上の様々な要因が奇跡的に組み合わさって、この文章を読むことが出来ています。
こうした様々な「縁」によって、「今ここ」という現象が構築されています。その縁の繋がりは、奇跡的な力によって結び付けられており、それは「私」という自我が作り出したものではありません。
これが目の前に常にすでにある豊かさです。これを、頭脳だけではなく、本当に実感として体感できれば、自然に「感謝」という感情が沸き上がります。
感謝:感謝とは、優しさ、贈り物、手助け、好意、その他の厚情を受けた人物がそれらを施してくれた贈り主に向けて示す、ありがたいという気持ちやその感情を表すポジティブな反応である 。 感謝の経験は歴史的に幾つかの宗教世界の焦点となっている。( ウィキペディア)
このように、私たち一人一人が常に「与えれれていたこと」に「気がつく」からです。
「私」という自我という認識機能も、両親・先祖という存在の遺伝子(情報)があって存在することが出来ています。
つまり、日常的に言われる「私」という永続する固有の自我などは幻想であるということです。釈迦はこれを「縁起」と呼びました。
普段、目の前の芳醇な豊かさに気がつかず、防衛本能から過去や未来に認識が偏りすぎているのは、不安や恐怖によって脳が炎症を起こし、防衛本能的思考が 優位になりすぎ、思考のバランスを欠いているからです。
偏った思考と認識を戻す
私たちはこの世で存在し、生きているだけで、常に膨大なエネルギーを与えられています。
今日も無事に目が覚め、太陽が拝めるということは、宇宙史から見れば異常な奇跡なわけです。
それに気がつかないということは、脳が観ている認識する方向が「今ここ」ではなく、不確定な脳が作り出した、過去や未来をさ迷っているからです。
これを仏教用語で無明と言います。「明」といはここでは縁起の「気づき」がない状態で感謝がない状態。日々の奇跡が当たり前だと勘違いし、防衛本能で、繰り返し劣等意識をさ迷ってしまっている状態です。夢遊病のような状態ともえいます。
そして、これは何も間違っているわけでではなく、現代社会特有の傾向です。寝ぼけている状態は、そのような意識状態なだけで、「悪」ではないのと同じです。ただし、色々事故が起こり危険ですが・・・。
こうした理屈を理解しただけで、私たちの認識が「芳醇な今ここ」に触れられるか、つまり「悟り」に至れるか、というとそれは無理な話です。
それが簡単にできていたら、釈迦の時代に様々な病や問題は殆ど全て解決していますが、そうではありませんでした。
理論や理屈、論理だけでは「悟り」に近い認識に至り、それを維持するエネルギーが圧倒的に足りません。
法律や倫理、道徳で「悪いことは悪い」「良いことは良い」と理性で分かっていても、様々な要因で私たちは自身のコントロールを謝り過ちを犯します。
何故そうなのでしょうか!?
エラーを起こす認知機能
身近な例で考えてみます。
交通事故や交通違反は、年間統計に換算すると、何万件もあります。
自動車の運転の仕方や、交通ルールの大切さは小学生から大人まで十分に理解していますが、その事故の件数はなかなか減りません。
つまり、先ほどの釈迦の「縁起」の智慧は「赤になったら止まって、青になったら進め」などという基本的な交通ルールのような誰にでもわかる論理でしかない、ということです。
運転教本で車の操作技術や交通規制を理解し、覚えても、車は運転できません。それは「絵に描いた餅」でしかありません。
そして私たちはロボットではなく人間なので、不合理な選択や決断を毎回行います。車の運転で、不合理な選択をしてしまう原因には、大きく分けて二つあるように感じます。
1,「認知機能」:認知機能が低下すると車を運転してはいけません。お酒を飲んだり、睡眠不足、疲労がたまると正常な認知機能が低下します。近年では車の運転には、老化による認知機能の低下も問題になっています。
2,「感情」:感情が激高していたり不安定になると、視野狭窄に陥り他者視点が取れません。つまりそれだけ自身の都合を優先する運転が多くなります。そのようなドライバーが増え、自身の都合を優先するもの同士が道路を走っていたら、衝突事故が増えるのは明白です。
ここで、車を自分の「心身」として考えてみてください。私たちは、生まれてから死ぬまでの人生という道路を、心と体の乗り物で旅しています。心と体は、ここでは車のようなものです。
そうした例えで先ほどのことを考えてみると、
1,認知機能が偏ると、極端な偏った感覚過敏や認知の偏りがあると、正確に状況を捉えることが出来ません。それによって認識は偏り低い自己認識や自己評価を基にした認識は、車のフロントガラスが曇っていたり、薄暗いカバーが覆われているようなものです。
2,感情が不安や恐怖が優位になると、どうしても防衛本能が優位になり、他者を気遣うことが出来ません。余裕がないのでイライラし、他者とのトラブルを起こす確率が飛躍的に高まります。
認識や感情が正常でないと、人生という旅路で事故を起こす確率が飛躍的に上がってしまいます。
人生という旅路を安心し、安定して過ごすには
人生という旅路を安心し、安定して過ごすには、つまり、より正確な認知機能と、安定した感情が非常に大切であるということになります。
そして、その認知機能の重要な能力の要素は「メタ認知」であり、
また、感情においては「感謝」という情動です。
「メタ認知機能」とは、簡単な言葉で言い表すと客観視のこと。自分を客観視して、今の自分の状態に気づく。そして、今の状態とは、歴史的に続く先祖のおかげで今の自分があるという当然の認識や、目の前にあるパソコン、TV,などのインフラも「縁起」によって生じた現象である、ということを気づくこと。これを「メタ認知」と機能と言います。
この機能は、ヴィッパサナ瞑想やマインドフルネス瞑想でおなじみの「気づき」のことです。
「感謝」とは、「今ここ」の芳醇な豊かさに気づくことで自然に沸き上がる情動のことです。脳内ホルモンで言うと「オキシトシン」などの物質が関連しています。
これらの重要な認知機能と情動を用いて、防衛本能が癖になった頭脳による判断や合理性、論理性だけに頼らないことが大切です。
心臓脳
脳がない生物、例えば植物には脳がありません。しかし、植物は種というレベルでは人間よりもはるかに優れた知性を持っているという研究者もいます。
つまり、思考や知性といったものを司る臓器は、脳が全てではないということが分かってきました。
「心臓神経学」とい分野での研究成果の一つは、心臓には複雑な神経のネットワークがあり、それは「心臓の脳」と見なすに十分な機能があるということが分かったということです。
心臓の神経組織には約4万の神経細胞があり、それらは脳の高次の中枢に情報を送って、知覚や意思決定そのほか多くの認知プロセスに影響を及ぼしています。
つまり、いまや「心臓」も「思考」し独自の知性を持っていることが分かりました。そして心臓は身体のまわりに最大の電磁場をつくりだすので、その情報は脳だけで受け取る情報よりもはるかに多様です。
そして、心臓が生成するホルモンに「愛」や「つながり」のホルモンとしてよく知られるオキシトシンがあります。
感謝という情動で心臓を活性化し、脳と同期している状態をコヒーランスという状態であるといいます。
この状態になれば、生理学的システムがより効率的に機能志う、より安定した感情を経験し、また精神的明晰さが増し、近く機能が促進します。
簡単に言えば、体と脳がよりよく働き、より気持ちよくなり、能力が増すのです。
ハート集中呼吸法
最後に、このコヒーランス状態を即興で創る呼吸法を紹介します。私がカウンセリング場面でよくクライアントさんに教授している方法です。
この呼吸法をより効果的に行うには、「感謝」という情動があると非常に効果的です。
<準備>
『ご自身の経験の中で、感謝することを3つ挙げてみてください。感謝すること、ということでピンとこなければ、嬉しかったこと、楽しかったことでも構いません。
ペットを飼っている方であれば、ペットを愛でているときの感情がオキシトシンを生成している感謝の状態と同じなので、その時の記憶と情動が使えるかと思います。』
その感謝の記憶の3つの内、特に印象的なものを一つ選んでいてください。
ハート集中呼吸法
①心臓のあたりに注意を向けてください。息が心臓ないし、胸に入ってきては出ていくのを感じながら、いつもより少し深めにゆっくりと呼吸します。
②5秒で息を吸い、次の5秒で息を吐きます。(これは目安であり、5秒でなくても安定したリズムなら結構です。)スムーズで心地よい呼吸になるようにしてください。練習するにつれて、無理のないスムーズな呼吸が出来るようになります。
③はじめのうちは、心臓に手をあてがうと、心臓に集中しやすいでしょう。そして<準備>で用意した、感謝した時の記憶をハート(心臓)の付近で思い出し、時にはその感情を強めながら、呼吸を続けます。
※1日の内に何回やってもかまいません。時間は数分でコヒーランス状態になりますが、5分程度を目安に行うとよいのではないでしょうか。研究によると、15分行うと、地球の磁場と共鳴した状態になりやすいと言われています。
※努力せず、楽に愉しく行うことがコツです。
※車の運転でも何でも、そうですが、この呼吸法も練習すればするほどスムーズにコヒーランスの状態に入り、維持しやすくなります。
「気づき」と「感謝」は、筋トレのように繰り返せば繰り返すほど上手に再現し、維持することが出来ます。
こういうわけで、「気づき」と「感謝」は人生を楽で楽しい旅路に必須な能力です。
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