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生命現象の本質である「認知・気づき」について

ななか進歩しない21世紀

認知科学と物理、数学の発展のおかげで、私たちはこれまでの世界観と根本的に異なる世界に住むことができました。

私はドラえもんという漫画が大好きで、小学生の時は毎日ドラえもんの漫画を読んでいました。そして、ドラえもんの漫画が永遠に続いて欲しいので、将来大人になったら東京に上京し、不二子先生と一緒にドラえもんを描き続けられたら・・・と密かに妄想していたものでした。

20世紀初頭は、戦争はまだ騎馬戦だったのに、その割とすぐに戦車や戦闘機が発明され、50年もしないうちに原子爆弾が運用されました。そして20世紀の後半には人類は宇宙を飛び出し、月にまで到着していました(月面着陸での解釈は未だに賛否両論ですが・・・)。

このペースであれば、21世紀は車は空を飛び、月や火星の旅行は当たり前の時代になっているだろうと夢想したものです。そして22世紀には本当にドラえもんが誕生するような科学技術が発明されるというわけです。
実際に、1989年公開の「バックトゥーザフュチャー2」という大ヒット映画では、未来の世界である2015年にタイムスリップします。そこでは、ホバーボードのように空宙に浮くスケートボードのようなものがあり、車は空を飛んでいました。

2015年ぐらいの未来では、それは当たり前の時代のように感じたのです。

しかし現在2022年、一向にそのような気配は感じられません。確かにスマホやパソコンの発展は凄まじいものですが、私が想像し、夢想していた未来とは程遠い未来になっていました。
それどころか、パンデミックは収まらず、戦争は始まり未だにミサイルや爆弾を仕掛け、殺し合いを行っている最中です。

このような未来を小学校の私が知ったらどれだけ絶望するだろうか・・・と考えてしまいます。

進歩は外側の世界観だけではない

このように、状況を外側だけ見て評価すると、私たちは進歩どころか進化のステップを足踏みしているだけなのか、それとも後退しているのだろうか!?という疑念も出てきてしまいます。

しかしそうではなく、冒頭に話したように、パラダイムシフトはもう起こりました。
今回のパラダイムシフトは、20世紀の急速な技術革新ではなく、認知革命なのです。

これはさながらニュートンの「重力の発見」と同じような感じに思えます。

というのも、ニュートンはリンゴが木から落ちた現象を見て(このエピソードも本当かどうかわからないみたいですが)、「地球にはモノを引っ張る重力という力がある」ということに「気づき」ました。

当たり前ですが、ニュートンが重力という現象の発見をしようがしまいが、ニュートンが生まれる前から重力は万億年も前から存在していました。

そして、ニュートンが重力という概念を発見し、応用する前に、人類は自然現象での落下する現象やその力学的構造を利用し、日常生活や、戦争に応用して来ました。
カラスでもなかなか割れないクルミを道路に置いて、自動車に踏ませることで中の実を食べることができます。これは自然現象を観察し、理解し、応用した例です。そんなことは鳥類にもできるわけですが、ニュートンはやはりすごいわけです。

その法則を数式化することのによって、客観性と再現性を持たせたことで、多くの人がその法則を理解し、応用できる恩恵を被ることができました。

数式化することで、共有化され文明は飛躍的に進歩した

「重力」という法則を発見し、数式化したことによって、多くの人びとが重力を数式という形で目に見えるようになったのです。そうして、重力を応用して様々なことが飛躍的にできるようになりました。

そうしてその延長線上に現代の様々な科学技術が存在しています。

つまり、重力が発見され、集団に共通認識され、応用されることで産業革命のような文明の大発展という結果が生じました。自動車、機関車、電車、飛行機、爆弾、といった発明品に間接的ですが重要な知恵としてニュートン力学という概念はベースになっています。

同じように、空飛車やてレポーテーション装置、テレパシー、若返りの薬など超未来の現象は、常にある宇宙法則に気づいて、それを共有化し運用することの副産物としてできる発明品として考えることができます。

メタバースやVRゴールの普及はその一貫とも言えるでしょう。そして、法則が発見されたものを多くの人が理解し、共有化することで応用的な技術や発明が生まれますが、情報化のインフラが整った現代では、過去よりも数100倍、数1000倍も早く共有化が起こるので、指数対数的な加速が起こっています。

しかし目の前の日常生活が全く変化を感じないという人もいるでしょう・・・。
それはなぜなのでしょうか?

それは、様々な技術革新の変化が、20世紀は目に見える外側の物理的現実を快適に支配するという人間の「皮膚の外」に見出されていたのですが、現在は、「皮膚の下」の技術革新が進んでいるからです。

つまり、血圧や温度、筋肉の硬直具合、そしてDNAを機械が読み取って、その人の行動パターン、趣味、趣向、思考パターンを読み取ります。AIがその莫大なアルゴリズムを解析し、その人間がどのような職業が向いているのか、どのようなパートナーと家庭を築くと幸せになれるのか、どれくらいの年齢でどのような病気になる確率が増えるのか!?ということさえもが解析されます。

その様なことは自由の侵害だと、思う人も多いかもしれませんが、その思考パターンもAIは呼んで事前に対応済みというわけです。

私たちの認知空間は、既に支配され、コントロールされている部分が多く、そしてその傾向は今後も驚異を増していきます。

このような書き方をすると、なんだか怖い未来やデストピアの未来を想起していしまいますが、それは物事の一側面だけを見た感想でしょう。見方によってはそうではないと思います。

先ほどのニュートンの例に見たように、ニュートンが重力の存在に気づき、数式化しなくても、私たちの祖先は重力のあるこの地球という惑星に生まれてから死ぬまで存在し続けていたのです。

その中で、無限に存在する地球と宇宙の法則の1つにニュートンが気づき、応用化しました。

しかし、ニュートンの偉大なる発見があってもなくても私たちは存在し、生き続けます。そして、気づこうが気づくまいが、「重力」という力を無意識に利用し、応用し、日常生活に役立てていたことは変わりありません。

ニュートンがいてもいなくても、「テコの原理」で重いものを持ち運んだり、投射角度を調整し、できるだけものを遠くに飛ばす技術は持っていたからです。

しかし重量という力を客観視し、数式化したものを応用することの便利さと偉大さは、そうでない場合とは天と地ほどの差があるのは、良いか悪いかはその後の文明の発展具合を見れば明らかです。

ニュートンの時代は「重力」の発見ということでした。
つまり、これを現代に当てはめると、何になるのでしょうか?

認知構造の発見


それは「認知構造」の発見ということになります。

つまり人工知能に代表される技術革新です。

時代は格差社会になり、富める者が富めないものの「便利に」「快適に」という抗えない煩悩を刺激して、貧しい者の個人情報を大量に搾取して巨大な利益を獲得し、世界を席巻しています。

「便利さ」自体も、本当は必要のないものでさえも、があたかもそれがあったらいいように誘導します。
その方法は「あなたの人生はもっと豊かに幸せになりますよ」という暗黙のメッセージとともに、有名人にそのセリフを語らせます。

そうして、アプリ内の自分の目が大きく見えたり、痩せて見えたり、筋肉質に見えたりするソフトを購入させようと誘導します。

これは本の一例ですが、SNSの自分の目が大きくなったり、痩せたりすること。本当にそれは必要でしょうか?

人間の脳機能と構造を利用し、利益を増すためにスマホやTVには様々な仕掛けが施されます。そうなると企業や権力者が作る評価がすべてであり、その評価の階段をできるだけ上に上がった方が「勝ち組」というような商号をもらえることになります。

このことは何万年も不安と恐怖を克服するのに手一杯であった人類の歴史が培った遺伝子レベルでの反応なので、一度そのマトリックスにはまると抜け出ることほぼほぼ不可能です。

ギャンブル依存や薬物中毒がなかなか克服するのが本当に困難なことを考えると、想像するのに難くありません。

「便利さ」というものは善も悪もありません。現象に対しての人間の一つの評価に過ぎません。

しかし、「認知」という構造を理解しておくと、社会や企業、権力者が自分や大切な人の何を刺激して、何を奪おうとしているのかがわかります。

一部の人は何を奪おうとしているのか

奪おうとしているのは、いつの時代も同じで、私たちの生命時間を奪います。

それは現代での言葉では、生命時間というものを簡単に変換した「お金」ということです。

端から見ていると、お金を奪われているように見えず、喜んで支払っている用にも観察できます。他人や社会から「これが幸せ」と言われた状態を求め、その条件を満たして安心している状態です。

だからほとんど多くの人々はとても幸せそうに見えます。戦争や環境問題、差別やいじめという根源的な問題が起こると、心を痛めチャリティとかやって困っている人たちに貢献できたと安心します。

感じていた罪悪感という痛みが解消できるからです。
そうして毎日の学校や育児、家事、仕事、家族や地域の役割でもう脳のCPUは満杯で、それ以上はフリーズしてしまいます。

チャリティしたお金が本当にどこに使われているのか、そもそもそれ自体が非常に怪しい世界な訳ですが、そんなことを追跡する時間も労力も残されていません。

しかしそれが何が悪いのでしょうか?

起きている現象は誰も何も悪くありません。

そこまでが個人という認識能力の限界だから、ただ単にこのような現象が起きるだけです。

外から与えられた情報がすべて「正しい」と思い込むと、それが真実として脳は認識し、それ以外の意見や主張は見ようとしません。場合によっては、「間違い」「悪」「迷惑行為」というように認識されてしまいます。

そうなると、外から埋め込まれた情報の正しさを保証使用とする言動を取ることが人生の至上命題になります。

「正しい」以外の情報は、すべてゴミか毒、有害なものとして脳は判断します。

そうして正しいもの同士が摩擦を生み、争いが生まれます。それは家庭というミニマムなコミュニティから国家というマクロのコミュニティに等しく働いているメカニズムです。

そうなると、何かを守る、戦うということが人生のすべてとなります。この地球上で最も影響力のある人間がそのような意識状態であれば、地球を覆う情報フィールド(エネルギーフィールド)は常に恐れと不安定さ、そして強固な攻撃性という状態に満たされます。

そうした電磁気的な影響を、過敏な生物がまともに受け、生命力を奪われます。
具体的にいえば、子供や動物、植物たちが汚染され、危うい状態になってしまうということです。

そして、他人が言った評価や概念、スト―リーが正しいので、自分や自分たちが実際に間違っていたり、被害を被っていてもその有害事象が見えません。

見えてもたまたまだ、運が悪かった、という曖昧な解釈をして現状を維持しようとします。

個人一人でそれがすめ場よいのですが、その思考言動パターンは他人に伝染し、同調効果を生み出します。
そしてその同調する場にいることが「安心」を生み出し、それ以外は排斥するような行動を無意識に行ってしまいます。

明るい側面

こういう書き方をすると、よくあるスピリチュアルカルトの終末論的な情報を連想させてしまいますが、私が行いたいことはそうではありません。

常に物事は両方の面があるということです。

片方の面が絶望的であってもその裏側には常に素晴らし希望の側面が潜んでいるということです。

これこそ認知の視点の切り替えです。これは単なる法則です。

よって、認知の構造や仕組みを知るということは人生を生き抜く上で最も重要なことの一つなのです。
認知の解明とは、どのように人間の認知が機能し、働いているのか、ということをしることです。

それはアメーバから人間に至る進化の過程をおさらいして知ることで、先祖を知るということです。
人間以上の生命現象の紡がれてきた意思、思いを受け継ぎ、発展させ、次の世代に渡すということです。

スピリチュアルと認知

「認知」の構造と機能を知るということは、実は「私とは何か?」という古来からスピリチュアルで問い続けられた問いに向き合い、答え続けることに等しいことです。

なぜなら「認知」を持つ存在は、人間だけでなく、動植物に至るまでのありとあらゆる生命現象の本質だからです。

現代科学と様々な宗教の根幹は時を追うごとにその距離を縮め、同じものを追い求めていたことがわかり、70年程立ちます。

そして、その同じものは何か!?と問われた時にそれは「認知」であるということが言えるようになりました。

時間は眺める観点から、過去⇒現在⇒未来というように一直線に流れているように見えます。それも一つの観点です。

この観点で眺めると、138億年前に物質が誕生し、ついで、生命、心という情報処理機能が生命現象に芽生えてきたようなストーリーがが見えます。

過去から流れる進化の過程で、宇宙は情報処理を行う認知を持つ生命現象を作ったということです。

認知、より平易な表現をすれば「気づき」によって、世界はあらわれます。

次回は「認知・気づき」ことについてお話したいと思います。

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