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街角に拾う戦前の建物

別に、その自然の変化に魅せられたわけではなく、ただうだる暑さから逃れるために、前方の伊予銀行の東側にまわり、日陰になっている通りを帰り道に選んだ。
 
こんなにはやく帰れるのは、減多にないことだッ。本屋にでも覗いてみるか?
 
そんなことを考え角を右に折れ、南に下る。
信号が赤に変わる。「ちぇっ」口を鳴らしてその場に足をとめる。
 信号機のかわるサイクルは五十秒足らずの短い時間にすぎないが、いざ立ち止まるとなると長く感じられる。
 この秒単位のわずかの時間に、道路を隔てた東北角の日銀の建物に目をむける。象牙色の小さなタイルで、一見亀甲模様紛いに仕上げられた壁面と、パラペット等の突起部をダークブラウンで引き締めた色調は。斬新な近代様式の建物を一段と格調高いものとし、車沿いに設けられたブロンズ調の街灯や、縁増して来た街路樹によくマッチしている。が何かが違った感じがする。……

信号が変わり、立ち止まっていた人の波が
縞模様の横断歩道を渡って行く。人込みのうしろから続いて渡り、南側の歩道に上がったところでもう一度日銀を振り返る。
 
一日の仕事を終えた充実感と、時間的ゆとりから、自分としては冷静に観察しようとしたが、さきほどの「ちがい」を感じさせたものは、色調に似合わず冷たい印象と銀行という威容だけを保っていることにあると思われた。
 かつて戦前の松山を思慕している人達から保存を求め、惜しまれながらも願いかなわず取り壊されてしまった前日銀の建物は、英国風様式の外観を誇っていた赤煉瓦造りの裁判所と相並び、まつやま という城下町の情緒に溶け込み、松山っ子の温かい情性で愛しんできた建物であっただけに、取り壊された時点で、松山の一部 として見られていた重厚な雰囲気の二つの建物は、松山という街角から永久に消え去ってしまった。 
 
 それは、三番町界隈に住む現在の子供達が、数十年の歳月を経た後に、現在の建物をまた街並みを、懐古的に眺めるであろうか?
疑問に思われたからでもあった。
 
 頭を空にして人込みを歩く。薬品会社の空きビルの前を通り、とあるビルを見上げた。
「榎町ビル」と、書かれた看板がある。榎町と言う町名自体戦後消えてしまい、知る人も少なくなっているときだけに、改めてその看板と建物を見直した。
 
歩道にむかって大きな廂が出され、ガラスブロックの玄関が道ゆく人の目をとめてはいるが、よく観察すると、建物自体は古めいた様式であり、長い年月とともに薄らいで来た記憶の中に残されていた建物であった。
 
「あれ見いの、鉄筋三階建のビルを動かすんじゃいうぞぉ」
 
「何トンくらいあるんじゃろね」
「何トンかわからんが、鉄板とコロを使って動かすんじゃけん、ガイなもんじゃねや」
昭和二十四、二十五年当時の事であった、と記憶している。将来エンジニアを夢見ていた少年期であっただけに、なまはんかな知識だけで技術屋気分をふかせ、無責任な工法を口走り、その作業を見入ったものであった……

帰宅途中の散策から遠い昔を回想し、追懐をたどるうちの意外性から「榎町ビル」の存在を知り、戦前の松山が残されていたことに意を強くした喜びは、もはや一時の感傷で終わるものではなかった。
 
 急かされる心を押さえきれず、数日後、榎町ビルの菅井医師を訪問し、時代の推移とともに、往時の松山を偲ぶべき町や建物の姿が消滅している憂いを説明し、自己の記録に残したい真意をつたえた。
 
 一面識もない無骨者の願いを早速に快諾していただき、移築当時の新聞や、工事中の写真までコピーして頂き、資料を頂くことが出来た。そのなかで、「作業に使われている鋼材は、伊予鉄のレールを使ったときいていますし、家ひきに従事した人の消息や、当時の古い話を知っている人が、すぐ近くにおられ私にもいろいろ教えてくれますよ。ありがたい事ですね……残念なことに新聞のスクラップには年月日が入ってないのですが…」
との説明も頂いた。
 
せっかくの資料であったため、県立図書館に足を伸ばし、年月日の調査を試みたが、昭和二十四年一月及び二月以外は、昭和二十五年末まで保管されてなく、新聞の発行年月日が解明されなかったことは無念でならなかった。
 また頂いた写真を観察するうちに、自分の古い写真帖の中にある一枚の写真を思い出した。
学生時代の私が初めて手にしたカメラはボックスカメラであった。装塡するフィルムも黒い遮光紙で作られた一枚シートで、当時としとは結構楽しめるカメラであったが、今にしてみればひどく粗悪な玩具同様のものでしかなかった。
 
撮影したものは主に学友とのスナップであったが、なぜか榎町界隈を撮影したものがあり、それは現在、喫茶、洋菓子店に華麗な変身を遂げた、かつての教会のトンガリ帽子である。 
 
奇しくも四十年余の歳月を経た数枚の写真の建物が、現在もなお向かい合った場所で戦前戦後の姿をのこしているときあ、松山市制百年と言われ、繁栄の道をたどる松山に逆行するように、戦前の街並みが、ほとんど失われてしまいつつ今日、記憶をたどり、戦火を潜り抜けて来たたてや、道しるべを、ひとつでも記録にとどめようとすることは、熟年者の虚言でしかないものであろうか。
 過日、某紙の川柳欄に
 
 わらべ唄 なくしてしまう ビルが建ち

の句が紹介されていたが、わらべ唄に郷愁を託され、乱立される建物を単なる現代文明の尺度として観察されている方がいたことに、意を強くしているものである。

建築設備だより平成元年十月会報十六より
写真と内容は関係ありません。

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