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俺達は情報を食ってる

3月末、森永牛乳瓶が廃止になるニュースを見た。古くから日本人の銭湯の相棒として存在し続けた瓶の牛乳、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳…それら全ての飲料が3月末に製造を中止しこれからは紙パックに媒体を変えるらしい。一見銭湯に通う多くの人の湯上がりに求められ時代の波にも負けず需要を保ち続けたように見えたがどうやら現実は甘くないらしい。
聞けば製造中止理由は主に大量生産のコスパの悪さにあるとのこと。牛乳を入れる瓶を制作する費用、重量が他の容器よりもかさむため運搬の作業量増加、その他諸々の理由を考えた苦渋の選択だったと森永牛乳は言っていた。
銭湯は大好きでよく通うが数える程しか瓶牛乳を飲んだことがない私ではあるが、このニュースを耳にした時大きなショックが全身を襲った。
飲む飲まないではなく、自身の生活に関係あるないではなく、日本に古くからあった文化がまた一つ死んでしまった事による喪失感がそこにあった。

しかし冷静になってみれば牛乳瓶が他の容器よりも性能が劣っており淘汰されてしまうのは当然のように思えてくる。むしろよくここまで長い事"しきたり"として残っていたものだと関心する。
「瓶に入っている牛乳は他のやつより美味しく感じる」
こんな言葉をよく聞くが容れ物一つで実際に美味しくなるならそんな上手い話はないだろう。風呂上がりに飲み口の広い瓶で一気に喉に通すから美味しく感じるのかもしれないけど。
とにかく牛乳瓶は我々人間の"なんとなく美味しく感じるから"と"なんとなく昔からの伝統だから"のふわふわとした理由で今まで生き残っていたのは確かだろう。
そもそも食べ物の殆どがその"なんとなく"に依存した存在だろうと思う。実際に味の良し悪しはさて置き皆がそうと言ってるからとか昔からずっと人気だからとかの情報でのみ味を判断している。今後はその"なんとなく"がどんどんと消えてしまうのだろうか。
我々は情報を食べる生き物だ。どうか無くならないでいつまでも人間の価値観に依存していて欲しいと思う。

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