文章や脚本を他人に見せることについて
作品を他人に見せるという事は自分の頭の中を人に見せるという事だと思う。
私は昔から物語を創ることが好きだった。
幼稚園の頃、画用紙1冊まるまる使ってうさぎの女の子の絵本を描いた。
小学生の頃、既に大人が観るような海外ドラマにどハマりしており、刑事ものの小説を書いた。
中学生の頃、いくつかの小説や絵本を書き、私は脚本を書きたいという事に気付いた。
高校生の頃、演劇部で初めて脚本を書かせてもらい、大会で上演した。
大学生の頃、年に2本くらいのペースで脚本を書き、書いたうちの約半分を所属していた学生劇団で上演した。
こうして書くとまるで、私は今まで何の躊躇もなく、自分の書いた文章や脚本を自信満々に他人に見せ、発表して来たように聞こえる。
しかしそうではない。
私は子供の頃、自分が物語を書いている事を友人の誰にも話さなかった。
自分の中から湧き出てくる想像の世界を、どこか恥ずかしく感じていた。
物語を書いている事が知れたら気味悪がられる気がしていた。
自分がしている事は他人から見れば気持ち悪い事なのではないかと思っていた。
実際に誰かにそう言われた訳では無いのに、何故かそう感じていた。
高校時代、私はせっかく演劇部に入ったのに、脚本は1本しか書けなかった。
もちろん書けなかった理由はいくつかあって、演劇の他に音楽もしていた私は、息付く暇もないほど忙しい高校生活を送っていた。
そんな中で何本も脚本を書くことは到底不可能に近かった。
でも、当時もし私の脚本を心待ちにしてくれる人がいれば、
本気で私の文章に期待をかけてくれる人がいれば、
私は脚本を書いたかもしれない。
当時、私の脚本を本気で楽しみにする人はいなかった。
当然だと思う。
誰が本気で、素人の女子高生が書く文章に期待するだろう。
事実、舞台演劇を一度も観たことのなかった私の処女作は、舞台転換は無理やり、セリフも動きも舞台らしくない、衣装替えも複雑で、
高校生が爽やかに演じられる代物ではなかった。
別に、一緒に青春を送った友人や先生が冷たかったという訳では無い。
そんな脚本でも、公演にかけてくれた先生や友人たちには感謝とともに申し訳ない想いでいっぱいだ。
私は先生や友人たちのおかげで、これ以上ないくらい最高な高校時代を過ごさせてもらった。
しかしそんな最高な3年間の中で、私は脚本を書くことを半ば諦め、むしろ舞台に立って演じることに喜びをおぼえていた。
次に私が脚本を書いたのは大学2回生の時だった。
私は大学で、私の脚本を愛してくれる人と出逢った。
彼女は、入学当時潰れかけていた大学の演劇部に私と一緒に入部し、戦いながら舞台を創ってくれた。
彼女は私の脚本を、いつも心から待ち望んでくれていた。
どんな事を書いたとしても、馬鹿にしたり、気味悪がったり、嘲笑ったりしなかった。
それでいて、彼女はいつも真剣で、正直だった。
彼女のおかげで私は、自分の文章を大勢に見せること、脚本を舞台にかけること、頭の中身をそのまま文字に起こすこと、それをおおっぴらにすることに、だんだん恐怖を感じなくなっていった。
彼女がなぜ、私の脚本をそんなに気に入ってくれたのか、
私に絶大な信頼を置いてくれたのか、
全てに真剣に向き合ってくれたのか、
それは分からない。
ただ、私が言いたいのは、私の才能を分かってくれる人にやっと出会えた!
とか、
なかなか正当な評価を受けられない!
とか、そういうことではない。
そんなこと、こっから先も思っていない。
私が言いたいのは、自分の頭の中身をさらけ出すことで、小馬鹿にされたり嘲笑われたりすることを恐れてはいけないということ。
実際にそういう人は存在する。
自分に出来ないことを身近な人間がしていたら癪に障るのかもしれないし、
本気で創作活動なんて気味悪いと思っているのかもしれないし、
それは本人にしか分からない。
そして、そういう人ばかりがいる所に身を置くと、なんだか自分はとても不毛で馬鹿げたことをしているような気になってくる。
しかし屈してはいけない。
そんな人たちの思うままになってたまるか。
信じるべきは、私と私の頭の中身を愛してくれる人、真剣に向き合ってくれる人、そして自分自身の頭の声。
それさえ聞き漏らさなければ、私たちは間違えずにすむ。
私たちはまだまだ挑戦できる。
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