ぼくのおじさん 譲さんの思い出
今年2月、遠い親戚のおじさんが亡くなりました。
私の祖母の従弟。血筋としては遠いにも関わらず、気が合う大好きなおじさんでした。横浜のご自宅へお邪魔したり、ときには私のコンサートに顔を出してくれたり、親戚の中でも近いお付き合いをしていました。常に体調の不安はあり、気がかりではありましたが、例年と同じように今年も自筆での年賀状が届いたので、お元気そうだ、と思っていた矢先の訃報でした。
おじさんとの出会い
おじさんとの出会いは私が大学3年生のころ。画家だったおじさんの個展を観に行くことを父に勧められたことがきっかけでした。それまではこのおじさんの存在、ましてや美術の分野で活動している親戚がいることすら知りませんでした。あの日のことを今でもよく覚えています。
私「木村優一と言います。節の孫です」
おじさん「セツ、せっちゃん?」
大きな声で祖母の名前を呼び、突然現れたその孫の登場に大変驚きながらも、喜んで迎え入れてくれました。熊本から上京し、おじさんの母校でもある東京藝術大学で声楽を勉強していること、祖母をはじめ熊本の家族のことなどを話しました。
おじさんは関東出身ですが、幼いころに熊本県大津町のおばあさんのお家に預けられたとのことでした。苦労も多かったそうですが、同じ町に住んでいた同年代の従姉、私の祖母とはとても親しかったようで、楽しい思い出を語ってくれました。そしてお互いに連絡先を交換し、それからは頻繁に手紙もくれ、長いお付き合いが始まりました。
背中を押されてリサイタルを!
私の歌を初めて聴かれたのは、ご夫婦でいらっしゃった卒業演奏だったと思います。この日からご夫婦で熱心に私の歌を応援してくれるようにもなりました。
私にとって、勢いに乗っていた高校時代とは違い、大学在学中から卒業後20代は歌の道を諦めそうになるほど苦しんだ時期でもありました。ステージを踏める機会もあまりない上に、自分だけの練習に閉じこもり、ステージに立って歌うこと自体にも消極的になっていました。そんな私を叱咤激励し、おじさん夫婦はご家族も巻き込んで「泉より大河へ」という後援会を作ってくださり、リサイタルまでも企画してくださいました。リサイタルなんてとてもハードルが高く、絶対に無理! と思っていましたが、愛情を持った厳しさで背中を押してくれ、おじさん自らチラシのデザインまで手掛けてくれました。このときのリサイタルは私にとって大きな自信となり、私の歌人生の大きなターニングポイントになりました。
大切な理解者
『スキファーノ先生日本を行く・鎌倉編』にも書きましたが、鎌倉をはじめ、色んなところに一緒に行きました。そして同じ芸術家ということもあり、何かを創造していく過程を知っているものにしかわからない苦悩を理解してくれる数少ない人物でした。
「みんな絵に対しても勝手なこと言ってくれるよ、本当に。絵について考え事していても周りにはその時間何もしてないと思われるしな(笑)」
繊細な感性を持ち、本当にちょっとした会話でも共感できることが多く、おじさんとお話しするといつもすっきりとした気持ちになりました。そして晩年まで制作、また執筆活動をしていました。とても優しい反面、社会に対する反骨精神を持ち、常に世の中の情勢にアンテナを張っている印象もありました。おじさんは今お空で大好きなお酒を飲みながらきっと絵を描いて、私に叱咤激励を送り続けてくれているのではないかと思います。
まだ、亡くなったという実感がなく、話もまとまりませんが、思いつくまま今日はおじさんを思い出しながら綴りました。こう振り返ると、感謝しかありません。
おじさんありがとうございました。
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