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歴史の中で建築を考える〜Virtual Coffee House2022発表振り返り〜

自主ゼミと雑談の中間のような、上半期に大学で学んだことや個人的な活動を持ち回りで発表する企画がVirtual Coffee House(VCH)だ。zoomをつないで3日に分けて開催し、全国に住んでいてそれぞれに忙しい仲間たちがプレゼン形式で近況報告をしてくれた。離れた分野の話を聞くことはいつでも楽しい上に自分も発表の機会をもらえたので半年の思考を振り返る良い機会となった。

自分のパートでは『歴史の中で建築を考える』と題して30分程度の発表を行った。発表を振り返るにあたってまずは春学期の課題から話を始めたい。ここしばらく<世界>と<社会>の関係を頭に浮かべることが多かった。大袈裟だな、と自分でも思う。大雑把な括り方で大して思考が整理されたわけでも明快な分析ができたわけでもなかったが、世界と社会がバラバラでつながりを失っているような印象を受ける機会がいくつもあった。オンラインでは頻繁に顔を見つつ(声だけの場合も多いけど)実際に会うことはほとんどないような関係性が増えた。陰謀論が花盛りで世の中が差別と格差に溢れていることを毎日のように思い知らされる。自分のことだけで精一杯で周りに関心を持つ余裕もない。凄惨な犯罪と下らないゴシップがスマホから目に飛び込んできて、ゴッサムシティに住んでいるのかとため息が漏れることも数知れず。その中で自分なりにどうしたら希望を持てるかと考えて、「異なる世界に生きていても、一つの社会を共有できるか」と問いを立ててみた。<世界>はモノの見方、世界観、その人なりの価値観の根本のようなもの。<社会>は人々が暮らし生活する共同体としての現実社会だ。自分が理解できることも理解できないことも様々なバックグラウンドや考えを持っている人がたくさんいることは当たり前だ。それでも皆で同じ社会に住んでいて暮らしのどこかを共有していることをどのように実感できるだろうか。特に建築空間を通じて異なる世界を持つ人々の共有地を持てないだろうかとぼんやりと考えていた。そんな最中に取り組んだ2つの設計課題を紹介したい。

コルビジェの弟子で日本の戦後建築史に特異な地位を占めた建築家吉阪隆正の作品を展示する記念館を設計する課題に"Down the Road"という作品を提出した。斜面地にめり込むように地下1階に展示室を設け、道路に面する1階は全て屋上広場とした。吉阪隆正の世界(観)に触れるために記念館を訪れる人々がお互いの存在を認識して、時にはイベントや交流が生まれるような広場を記念館のメインに据えたかった。地下の展示室が吉坂の生身の世界に入る空間なら屋上広場は現実に戻って社会を再認識できる場所となる。そんな広場のための記念館を設計した。

2つ目の作品は高田馬場の公共図書館の計画だった。アジア系のコミュニティが多様に存在する土地柄を念頭にアジア圏の21言語で書かれた本が集められた図書館を考えた。言語は世界を把握する強力なツールであるとともにその人にとって認識できる世界そのものでもある。単語の割り当てや文章を作る構造が言語によって異なり、言語が異なれば世界を認識する仕方もまた異なる。それほどに私たちは言語で世界を認識し世界を作っている。日本は他言語が通じづらく圧倒的に日本語が優位な社会だからこそ、他言語の世界を肌で感じる図書館は魅力的だと思った。自分には読めない本ばかりでも他の人には自分のルーツを手に取ることができるかも知れない図書館だ。社会インフラを担う公共の図書館で他者の世界に触れる経験ができないかと考えていた。

デザイン力の拙さを差し置いても2つの設計課題にどこかで煮え切らなさを感じていた。建築は思考ではなく空間だ。どんなに思想を空間化しようとしても建築を建築たらしめるのはもっと身体感覚に近いものではないだろうか。建築を頭で考えているだけでは建築の肌触りのようなものを逃してしまうのでないか。自分の設計した建築に机上の空論をこねくり回しているような足元の覚束なさを感じていた。もっと肌感覚に近いところで建築を考えられないだろうかと行き詰まっていた時、建築史の授業で年表を作成する機会があった。ルネサンスから19世紀末までの建築を集め「近代建築史虚飾年表」をまとめた。産業革命後に鉄とガラスが建築に導入されエコール・ド・ボザールが牽引していた様式建築が決定的に時代遅れになった時点から時代を辿り、建築界が行き詰まりに至る経緯を考察した。ルネサンス期に華々しく誕生して以降、職業建築家は空間を演出することを職能とした。クライアントの要求に精一杯応えるように時には建築物の物理的な実像を超えて建築に望ましいイメージを纏わせた。錯視を用いて遠近法を強調する、構造躯体と無関係にアーチや飾り付き柱梁を取り付ける、過去の建築物をそのまま引用するといった手法が300年余りの間で開発された。それらは当時の学問知見を反映するとともに世俗権力を権威付ける役目も果たした。しかし、社会の要請に寄り添った建築は容易に社会に見捨てられもする。いつの時代の建築プロジェクトは時間がかかり社会は移ろいやすい。社会に求められるまま巧緻に空間を演出するほど飽きられ方もまた甚だしい。19世紀以降の工業化した社会を象徴すべき建築は工場のような鉄とガラスの構造体であり、前時代までのギリシャ・ローマを範とする演出された空間ではなかった。しかもその陳腐化は産業革命後に唐突に起こったわけではなく空間を演出するという建築家の職能と直接的に結びついている。ルネサンス初期の建築家ブラマンテがサンタ・マリア・ブレッソ・サン・サティロ教会で遠近法を強調し奥行きが深く見える祭壇を設計した時から建築家の空間演出が虚飾に転落する萌芽は育っていた。建築史の専門書をめくり年表にまとめる作業は探偵のようで楽しかったが、それより時間的な射程をとることで現在を相対化できることが面白かった。建築を考える上での足元の覚束なさを歴史がしっかりと支えてくれるように思った。

夏休みの初めに考えを刷新してくれる出来事がもう一つあった。初めて一人で日本を出てパリに旅行に行った(この時の日記はまた早いうちに公開したい)。お金がないことを逆手に取り1週間パリの街を歩き回って美術館に入り浸った。街の全てが歴史的な建築であることに圧倒された。1850年代からのオスマンによるパリ改造で出来上がった整えられたアパルトマンと放射路の景観は歴史遺産そのものだ。19世紀の街並みの中に中世のロマネスクから新古典主義までの教会や宮殿が聳え立つ。教会はどれも今でも現役で邸宅や宮殿は美術館になって(ルーブルは言わずもがなだが)隅々まで見学できる。パリの歴史の中に現在のパリの街があり、歴史が現在のパリの中に生きていた。これまで本や画面で見ていただけの建築が全て歩ける範囲にあるのだ。建築にとってはリファアレンスが街の中に全て揃っているということになる。

現代建築も決して歴史と無縁ではなく、建築の歴史上に位置付けられることで優れたパリの建築になる。ポンピドゥセンターは鉄骨トラスフレームが建物を囲み構造が剥き出しの工場のような印象を与える。それがエッフェル塔が建てられた頃のプレモダニズム建築を思わせることはもちろんだが、ゴシック建築然としていることに驚いた。屋上庭園を飛び越える巨大なトラス梁はゴシックのフライングバットレスそのものだ。ゴシック教会ではフライングバットレスが巨大な石柱を外側から支えることでステンドガラスの光に満ちた身廊が生まれ、ポンピドゥセンターではスチールフレームがエスカレータとガラス張りの展示室を支える。さらに、周囲のアパルトマンより10メートルほど高いポンピドゥセンターは中世の街に聳えるゴシックの圧倒的な存在感を思わせる。奇しくも数ブロック南にはパリを代表するノートルダム大聖堂が街を見下ろしている。滞在中に1日パリを離れスイス国境に近いロンシャン礼拝堂まで行った。近代建築の父、コルビジェ設計による世界遺産だ。ロンシャンの礼拝堂は床から天井までせいぜい8メートルほどしかなく教会というよりこじんまりとしたレストランを思わせる。天井が低く迫り小さな窓から直線的な光が差し込む空間はゴシックより時代が古いロマネスク建築に通じるところがある。パリにはサンジェルマン・デュ・プレ教会という6世紀末まで遡る最古の教会が残る。そこの小さな礼拝堂の落ち着いて心温まる空間がロンシャン礼拝堂と似ていた。ロンシャンは年に一度巡礼者が目的地に目指す礼拝堂だ。長い旅を終えた巡礼者はキリスト教建築の古い形式を思わせる田舎風のこの礼拝堂でやっと胸を撫で下ろすのだろう。パリ最新の現代建築の一つがフォンダシオン・ルイ・ヴィトンだ。ルイヴィトン財団が運営するギャラリーでパリのはずれのブローニュの森に建てられた。くねりながら上昇するような筒状の展示室にガラスの帆が絡みつく建築はバロックの空間原理そのものだ。バロックはルネサンスを引き継ぎつつ動的な空間性を目指し大空間の分割とうねるような運動性を特徴とする。大学の授業では知の爆発の時代に歩を合わせた建築だと教わった。現代美術のコレクションを抱えるギャラリーが帆が風を受けるような躍動感に満ちているとアートを前にして心が弾みここから新しい知の爆発があるかもしれないと期待できる。さらにバロックはパリの重要な建築群の様式でもある。ルーブル宮をはじめパリの宮殿の多くはバロックの時代に建設が始められ改築が重ねられてきた。現在のパリの下地は16、17世紀のバロック期に整えられた。パリの優れた現代建築はパリの歴史に立脚している。片足を歴史の上に置き、もう片方を未来に向けることでその真ん中の現代に建っているような建築がパリの建築だ。もっと歴史に寄りかかってもいいのだとパリの建築たちは教えてくれたようだった。ともかくも、パリは毎日が楽しかった。陽光が注ぎ木々が緑陰を落とす街で観光客は散策を楽しみ、パリっ子は日常の生活を送り、誰もが公園の芝生やセーヌ河岸で憩いのひと時を過ごす。シャガールが描いたままのパリが目の前にあった。パステルカラーでみんなが踊り飛び跳ねるようなパリ。毎日がお祭りのような街パリ。ヘミングウェイは晩年に若き日のパリ滞在を回想し『移動祝祭日』を書いた。ロストジェネレーションから100年を経てもパリはまだ祝祭日だった。

パリから帰って第2回松本家展の準備が始まった(これを書いている時も制作に追われる真っ只中だ)。福島県葛尾村の帰宅困難地域の目の前にある松本家を物語る松本家計画の第2回展示として松本家がある土地の歴史をリサーチし展示にまとめようと考えている。1万年前の縄文時代から震災直前まで、長い長い歴史を興味本位に拾い集める取り組みだ。第1回松本家展では現在地と題して自分達が関わり始めたちょうどその時の状況を記録した。第2回松本家展−昨日の記録、1万年の記憶−と合わせれば松本家の過去から現在までを一応網羅したことになる。そこから考えるべきは松本家のこれからにあたる部分だろう。松本家の未来とも言えようが、それは1万年前からの過去をも含んだ未来の姿だ。過去と未来に片足ずつをかけたパリの建築のように松本家もこれまでの歴史に寄りかかって今後の姿を考えた方が良いだろう。空き家になった現在の状況に対処しようとするだけでは無理にでも人が住むのか今流行りの空き家利活用に乗るのかというところに落ち着いてしまう。歴史に目を向けることで現在の状況を相対的に捉えることができる。松本家計画では松本家について物語ることだけをルールにして自分達を語り部だと勝手に言い張っている。ヴァルター・ベンヤミンが書いた語り部もまた過去を未来に向けて今の人に聞かせ伝える存在だ。小説と新聞報道の勢いに押され語り部の存在感が薄まることを危惧したベンヤミンは歴史が埋もれ現在ばかりが取り沙汰される状況に焦りを感じたのかもしれない。第2回展示で過去をリサーチすることは歴史を語り未来を生きる松本家の今後の形を考える助けになるだろう。歴史を考察することは建築の専門領域の一つではなく、現在を考える貴重な拠り所だ。歴史の中で建築を考えることで雑貨ではなく工芸品のような肌触りと思考が混然一体となった建築の姿を描けるのではないだろか。














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