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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(5)- 鑑真号で上海へ -

私の運命を決定的に変えた出来事

関西の某私立大学の文学部哲学科に第一志望で入学した。龍哥がワシントン大学心理学部哲学科だったから、というだけの理由で同じ学科を選んだ。東洋哲学専攻の教授は一人だけだったので、一択。「先生のゼミでブルース・リーで卒論書いてもいいですか?」「え?ブルース・リー???」当時の日本ではアクション俳優としての知名度しかなかった龍哥。そりゃキツネにもつままれるわね。「実は彼はワシントン大学心理学部哲学科出身で、老荘思想を取り入れているんです。」「ほう、そうなのかい。」ということで無事東洋哲学専攻に。『截拳道 の理解における禅思想の関連性の考察』という卒論で優をもらった。好きな事は真剣にやるからね。当然の結果。教授も面白がってくれた。ちなみにこの頃は「截拳道 」は「せっけんどう」と読んでいた。「ジークンドー」という今最も定着している読み方が出て来たのは随分後のこと。

さてさて、どんな事件が私の人生を決定づけたかというところへ話の方向を向けていきましょうか。

大学2年生から3年生に上がる春、卒業旅行に行った。いつも女子4人でつるんでいた私達。2人が短大だったので、その2人の卒業祝いに4人で旅行した。行き先は主役の希望で上海に決定。そこへ、まだまだ世間知らずの私が「それならついでに香港も行こうよ!近そうだよ!」と言い出して、上海・香港旅行となった。

神戸から鑑真號という船で2泊。今は新鑑真に取って代わっているらしい。私達は学生だったから当然一番安い二等の雑魚寝部屋。揺れは激しいわ、食事は脂っこすぎの上に不味いわで、4人全員船酔い。新鮮な空気と少しでも揺れの少ない場所を求めて出て行った甲板には学生やバックパッカーがずらりと並んでいて、全員が『地球の歩き方』を手にしていた。インタネットの無かった当時、圧倒的情報量を持っていたのは『地球の歩き方』だったからね。

到着したのは2日後の夜。パッケージされていたなかなか良いホテルに泊まって疲れを癒す。翌日、調べてあったホテル(もう名前も覚えていない)に行き、その場で交渉してチェックイン。3人部屋に簡易ベッドを一つ入れてもらって4人でお泊り。とてもレトロな部屋で4人とも気に入って大はしゃぎした。

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こんな感じ。素敵でしょ。ディスプレイじゃなくて、部屋の備品よ。

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何枚か貼ってみよう。

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当時の上海はまだまだ発展途上で混沌とした面白い街だった。テレビで見たことのある昔の日本のような様相だったけれど、今の上海はもう似ても似つかないものになっているのだろうな。この後一度も行っていないので変化の程度はわからない。

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この写真のおじちゃん達には驚かされた。あきらかに日本人とわかる私達に「日本人?」と声を掛けてくる胡散臭い奴らがうようよいる中で、朝の散歩をしていた私達に「日本からか?」と近寄ってきた。完全に警戒モードに入っていた私達に「日本のどこや?関西か?ワシらなぁ、園田におってん。」と超ネイティブの関西弁で話しかけてきた。え?園田?確かにソノダって言うたよね?尼崎の園田?なんでよりにもよって園田?上海でそんなじいさんに巡り合うってなんなん?「園田に住んどってん。なつかしなー。」めっちゃ関西弁ネイティブやん。あまりに驚きすぎていろいろ突っ込んで聞くのさえ忘れて退散してしまった。(友よ、顔にモザイク掛ける術を持たない私を許せ)

天邪鬼な性格が災いしてか、なんだかもう声掛けてくる人全員疑うモード全開だった私。未だになんだかスッキリしない思い出を次に書いてみよう。脱線ばかりで、いつになったら通訳の話になるねーん!と思われていたら申し訳ない。もう少し脱線に付き合ってください。(続)




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