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香港

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2020年9月の記事一覧

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(34)『追捕/Man Hunt』文化の差異で衝突 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(34)『追捕/Man Hunt』文化の差異で衝突 -

クルー到着からプリプロ2016年2月にクルーがやって来た。大阪に制作拠点を置き、プリプロが本格的に開始。

私は当初、制作部配属だったので香港側クルーが入ってきてからは、香港側制作部と日本側制作部の通訳をやったり書類の処理手伝いをしたり。ロケハンなどに同行するよりはバックオフィスの事務仕事だった。決してエキサイティングな仕事ではないけれど、一つのプロジェクトを動かすということはこういった事務作業も

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(33)- 『追捕/Man Hunt』ロケハン -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(33)- 『追捕/Man Hunt』ロケハン -

『追捕 / Man Hunt』そして私の通訳人生で最も重要な仕事が入ってくる。いよいよ香港電影の中の人になる。

大阪観光局には、内部だけど独立な組織として大阪フィルム・カウンシルが入っている。私自身が映画好きなこともあるし、性格的に馬が合ったこともあって、FC(フィルム・カウンシル)のCちゃんと仲良くなった。

NHKBSの「アナザー・ストーリーズ」が終わって暫くした2015年のある日、Cちゃん

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(32)- NHKBS「アナザー・ストーリーズ」日本編 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(32)- NHKBS「アナザー・ストーリーズ」日本編 -

第3部 - 日本 - それは私いよいよ『”燃えよドラゴン”誕生 ブルース・リー 最後の闘い』最終パート。いやもう本当に驚いたよ。

放送日は聞いていたが、どんな構成でどう編集しているのかは知らなかった。私の家のテレビはBSが入らない。どうしてもオンタイムで観たかった私は妹の家にお邪魔した。取材は受けていたので、香港編で少し出してもらえるのかなーと思っていたが、前半の香港編での出演は無かった。アメリ

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(31)- NHKBS「アナザー・ストーリーズ」シアトル&LA -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(31)- NHKBS「アナザー・ストーリーズ」シアトル&LA -

第2部 - Seattle & Los Angeles -番組の流れ的に次のアメリカ編の話をしてみよう。こちらも Los Angeles には信頼できる現地コーディネイターがいたのだけれど、李小龍業界的な大物を案外私が知っているということでプロデューサーからお願いされて繋いだのが Seattle のターキー・キムラ氏と Los Angeles のロバート・リー氏。

Taky Kimura ターキ

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(30)- NHKBS「アナザー・ストーリーズ」香港編その2 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(30)- NHKBS「アナザー・ストーリーズ」香港編その2 -

第1部 - 香港 - 続き
香港でのロケの話をもう少し。途中大脱線あり。

現地コーディネイション会社が繋げたインタビュイーの中で最大の目玉と言って良いのは Chaplin Chang 張蔭鵬氏。しかし申し訳ないが、「なーんだ、張さんだったら言ってくれれば良かったのに。私、仲良しですよー。」「え?そうだったの?」ということで私的にはあまりサプライズではなかったというオチ付き。

朝、ご自宅へ車で迎

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(29)- NHKBS「アナザー・ストーリーズ」香港編その1 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(29)- NHKBS「アナザー・ストーリーズ」香港編その1 -

次の港へそして私の人生はいよいよビッグ・サプライズな方向へ大きく舵を切り、本格的に自分の望んでいた航路へと進む為の風を受け始める。

大阪観光局を表向きは契約満了での更新無しとなり、フリーランスという肩書のプー太郎になった。通訳・翻訳の仕事をとにかくやらねば、と思っていたところ、アメリカの友人が以前に出版した『Regards from the DRAON - SEATTLE -』の日本語版を出版す

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(28)- Hong Kong Filmart -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(28)- Hong Kong Filmart -

大阪アジアン映画祭では、本当に多くの物を得た。過去も今も。広東語通訳としての仕事の安定した機会。そして香港映画人と親しくなれる機会。ここでどれほど多くの良き友人を得たことか。感謝してもしきれない。

Hong Kong Filmart大阪アジアン映画祭は長らく香港フィルマートとほぼ同時期に開催されていた。ある年、開催時期が重なったことで大阪アジアン映画祭への招聘ゲストのスケジュール調整が非常に困難

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(27)- 『智取威虎山』@京都ヒストリカ映画祭 -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(27)- 『智取威虎山』@京都ヒストリカ映画祭 -

京都ヒストリカ映画祭の時の話をもう1本この京都ヒストリカ映画祭って面白い趣向の映画祭なので宣伝しておく。1925年以前を舞台に設定した映画のみを招聘するというニッチなこだわり映画祭。国や地域にはこだわらないとはいえ、そんなに昔の話を舞台にした映画が毎年わんさか出てくるわけではないだろうから、作品自体を探してくるのも大変だろうと思うのだけれど、毎年素晴らしいセレクトっぷり。ゲストの数もまだそれほど多

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私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(25)- 大阪観光局での業務がコネクションを広げた -

私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(25)- 大阪観光局での業務がコネクションを広げた -

いよいよ広東語通訳へのシフト開始とはいえやはり需要はまだまだ少なく、毎年3月の大阪アジアン映画祭が一番楽しくて仕事量のある状態が続いた。

通訳派遣会社のコーディネイターは広東語と普通話の違いを分かっていたので、私に打診がくる案件は基本的に広東語案件のみ、需要は本当に少なかった。年間通して商談会やセミナー等の細々とした単体案件が数件といったところだった。

広東語通訳のみで生計を立てられる収入には

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