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SBG16「格差」の壁を受け入れよう

カテゴリー 8 努力ではどうしようもないもの  身体的文化資本とは

 一定の年齢までは超えられない「身体的文化資本」というものがあります。
 わたしの個人的解釈では、それは、「子どもがそれぞれ差を伴って持つ能力のようなもので、家庭の経済状況や親の芸術への関心度などの影響によって生じた結果によるものです」。
 塾や習い事に通わせられる家庭で育ったのか、その費用の額の違い、高等教育が国公立か私学か。他には、両親が音楽好きで、何らかの楽器を普段から演奏している家庭環境で育った。さらに、絵が好きだとか、テレビの視聴番組がどのようなジャンルであったか、テーブルに置かれてある雑誌の種類も、親がよく本を読んでいる姿を子どもが自然と見ているかいないかとかといった差異で、これらは、子どもに対しての問いかけにあたる「問いの質」に至るまで一定期間ずっと浴びさせられるものとして、その子どもの考え方、生き方の成長に大きく影響を与えてつづけます。

平田オリザ氏は著書*の中で(以下引用)
この「文化資本」という概念はフランスの社会学者ピエール・ブルデューによって提唱された。まず、「文化資本」は細かく、三つの形態に分類される。

一、「客体化された形態の文化資本」(蔵書、絵画や骨董品のコレクションなどの客体化した形で存在する文化的資産)
二、「制度化された形態の文化資本」(学歴、資格、免許等、制度が保証した形態の文化資本)
三、「身体化された形態の文化資本」(礼儀作法、慣習、言語遣い、センス、美的性向など)

 一は、お金で買うこともできる。もちろん何を買うかのセンスは問われるし、親から譲られるものが多く含まれる点では、ここでも格差は歴然と存在するが、財力などによってのキャッチアップも可能である。
 二は、成人になってからでも、本人の努力によって獲得可能な部分が多い。この点も、そもそものスタートラインが違うという経済格差の問題はあるが、後述する身体的文化資本に比べれば、まだ努力のしがいのある領域ということになっている。
 問題は三の身体的文化資本である。
この身体的文化資本を「センス」と言ってしまうと身も蓋もないが、「様々な人々とうまくやっていく力」とでも言い換えれば、それが2020年度の大学入試改革以後に求められる能力に、イメージとして近づくだろうか。これまで述べてきた「主体性・多様性・協働性」はいずれも、この身体的文化資本に属する。これを、これまで使われてきた言葉で言うなら、広い意味での「教養=リベラルアーツ」と呼んでもいい。
 ブルデューが挙げたのは、美的感覚や感性を含むセンスやマナー、味覚あるいはコミュニケーション能力などだが、私は最近、これに加えて、人種や民族、あるいはジェンダーや性的少数者に対しての偏見がないかどうかも含めて説明している。

 たとえば少し極端な事例になるが、男尊女卑傾向の強い家庭に育って、中高一貫の男子校に進学した一人っ子の男子を考えてみよう。彼が、これまで紹介してきたようなグループワーク型の大学入試を受けることになったと想像してみて欲しい。18歳ならば、相対的に女子の方が弁が立つ。女の子が議論を先導し始めたところで、「女は黙ってろ!」と一言でも言ってしまったら、彼はその場で不合格となるだろう。
いままでは、どの大学にもそんな合否の判定基準はなかった。ところが、これからは、こういったことが、きわめてまっとうな合否判定の基準になるのだ。(中略)
 さて、こういった身体的文化資本は、おおよそ20歳くらいまでに決定されると言われている。分かりやすい例は「味覚」だろう。味覚は幼児期から12歳くらいまでに形成されるという説もある。幼少期にファストフードなど刺激の強い、濃い味付けのものばかり食べ慣れていると、舌の味蕾がつぶれて細かい味の見分けができなくなるというのだ。12歳というのが本当かどうかは議論の余地もあるだろうが、それが早期に決定づけられそうなことは想像に難くない。音感やリズム感、色彩感覚なども、比較的、早い段階で形成される能力だろう。
 言語感覚、論理性などは、もう少し長期で形成されるのだろうが、小さい頃からの読書体験や言語環境が、子どもの成長に大きな影響を与えることは、最近、とみに知られるようになった。
また逆に、先に掲げたジェンダーについての偏見など、ある一定以上の年齢になると「ちょっと、この人は治らないな」と感じることもあるだろう(もちろん、そういった人々も理性によって偏見を表に出さないように振る舞ってもらわなければならないのだが)。
いずれにしてもこれらの能力は、人生の非常に早い段階で、しかも、ほぼ自然に「身についていってしまう」たぐいのものなのだ。(引用終わり)
         引用先*「22世紀を見る君たちへ」講談社現代新書2020

 引用が長くなり申し訳なかったですが、私もこの言葉にはショックを受けました。私なりの解釈では、これは「お里が知れる」とか「お育ちの良さ・(悪さ)」とかのことだと思いました。
 私に娘が生まれたとき、女性の先輩の先生から「女の子は贅沢に育てなさいよ、卑しくなってはいけませんからね」と助言ともいえるお言葉を頂いたのを覚えています。今となって、なるほどと思います。当時は、提唱者のブルデューなど知りませんでしたが。

 またしても本の紹介のようになってしまいますが、身体的文化資本に全く関係なさそうな本に、「これって身体的文化資本のことが書かれてあるよな」って、最近、気付かされることが起こりました。小学生のケイタ君が書いた料理本にあたるのかよくわかりませんが、「料理大好き小学生がフランスの台所で教わったこと」(自然食通信社刊)です。
 ここは引用せずに第1章からのみの内容をまとめさせて頂きます。
 著者のケイタ君の家族は、彼が2歳の時に神戸から長野県に引っ越し、家族の食料が自給できる農業を始めました。(この農業もSDGsの理念が循環型農業となっていて素晴らしいと思ったのですが、ここでは省かせていただきます。)彼のお母さんは、英語の教師で通訳や翻訳をなさっています。
台所で料理をするお母さんを見て、包丁も真似をしたがったそうです。ここで、お母さんはなんと1歳のケイタ君に包丁を触らせるのです。普通だったら「危ないからやめなさい」と取り上げるところですよね。私も、実際、二人の子どもには与えませんでした。(はい、ダメパパ決定!)それでケイタ君は何度も指を切ったと書かれてありましたが、おかげで料理が好きになったんだと分析しています。
 彼の家には世界中から「農業ボランティア」として、これまで130人以上が滞在しました。家族みたいだとも書かれてあります。世界中の料理のレシピが集まる状況にありました。
その中でフランス人のジェレミーさんとの関りが深くて、フランス料理が大好きになったそうです。
 彼はフランスに行く計画を立てて、小学5年生の時、自分の包丁を鍛冶屋の定正さんのところへ行って作ったというではないですか。本にはその様子が写真付きで載っています。
 そして第2章で、よいよフランスへと旅立つのですが、紹介はここまでです。

 ケイタ君の行動力がどこから来るものなのかや、好きなことから始められたのもなぜかということを、もう十分にお分かりいただけたと思います。
 彼の身体的文化資本は彼の家庭環境や、親の子育てに対する理念から来ています。循環型農業(詳細を触れませんでしたが)、インターナショナル性(英会話教室に通わせるわけでもなく)、家族以外の人々とのコミュニケーション能力が自然に備わる環境、好きなこと、やってみたいことが自由にできる周囲の人の理解などが自然な形で存在していました。
 では、都市部や市街地に生まれ、そのままそこで育ってきた多くの皆さんは、どうすればいいのでしょうか。


 次のSBGsで考えてみましょう。

次回配信に続く

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