同じ立場に立つこと

「忘れられないのは、全く私と同じ目線で対等に話してくれたことなんです。」 (鶴見俊輔)
「折々のことば:2350 鷲田清一」『朝日新聞』朝刊、2022年4月15日。

最近読んでないなあと思いながらふと手に取った新聞。そこに書かれていた一言。なんだかわかるような気がした。

みんなと同じように接してほしかった。

「みんなと同じように」って言うと、ちょっと違うかもしれないけど、私だからっていう理由で距離を取られたくなかった。

本を読んでいて「真面目だね」って言われた。意味がわからなかった。私にとって読書は勉強じゃなくて楽しみだから。みんなが外で走り回ったり、バスケをしたりしている感覚と同じなのに、なんで本を読むと真面目って言われちゃうんだろうって思っていた。

中学生の頃うまくクラスに溶け込めなかった。いじめられていたなんてことは一切なくて、でもいつもクラスメートとどこか距離を感じていた。ずっと自分が「真面目だから」だと思っていた。私が読書をしているせいだとも思った。

そんなことがあったから、高校生以降、誰かが自然と話しかけてくれることが、「入れて」って言わなくても気づいたら話の輪に入れていることが、「帰ってもいい?」って聞かなくても一緒に帰ってくれる人がいることが、クラスの一員として認められているような気持ちになれることが、ものすごく幸せだった。真面目なそらじゃなくて、読書をしているそらじゃなくて、1人の友人として関わってくれることが嬉しかった。

そんなことをとてつもなく幸せに感じられる性質は、今も変わらなくて。

最近特に思っているのが、コロナ禍でお世話になりまくりな朝活のコミュニティでのこと。話を振ってくれたり、何か企画に誘ってくれたり、何か発言したら受け入れてくれたり、話を進めていく中でふとそらさんはどう思う?って聞いてくれたりするたびに、年齢や生きている世界が違くとも1人のメンバーとして接してくれていることを感じて、すごくすごく幸せだなって思う。

うまく言葉にできないけれど…
きっと私は同じ立場に立って、相手と話がしたい。
超真面目な私とそうでないあなたではなくて、同じクラスの私とあなた、学生な私と学生じゃないあなたじゃなくて、同じメンバーの私とあなた。

自分と相手が違うのはもちろん当たり前のことで認めるべきこと。だけど、その違いで壁を作りたくない。
もちろん私が話しかけるときも同じ。
難しいけどね。

私はずっと心のどこかでそう思っていたのかもしれない。



では、素敵な1日になりますように。