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立派な向日葵になるより、まずは枯れないように生きる。

私の目に映るみんなは誰もがみな輝いて見える。

夢に向けて挑戦している人、「好き」を追求して仕事にしている人、海外に数ヶ月留学している人、学校を休学して何かに挑戦している人、語学がめっちゃできる人、毎日コツコツ継続している人、就活を終えている人…

あげようと思えばわんさか出てくる。

私はその人たちの出した結果だけを見て、輝いているなあって言っているわけではない。目指すものがあって、そこに向かって全力で努力できること、それがわたしにはときどきとてつもなく眩しく見えて。目を開いていられなくなるのです。目を背けたくなるのです。

私には全力で取り組みたい、目指したいって思えるものがまだ見つからないから。

向日葵が太陽を追っかけるように、私も何かに一生懸命になりたい。

向日葵は太陽の光を求めて、太陽の動きに合わせて花の向きを変える(って聞いた)。私もそんな向日葵のように、太陽となるものを見つけて追っかけたい。曇りの日で太陽が見えなくても、雲の上にある太陽を信じて、上を向いていられるような、そんな心の底から追っかけたいと思えるものに出会いたい。

昔、祖母が「向日葵の一生懸命なところはそらにそっくりだね」って言ってくれたけど、私はまだまだなんだよ。

もちろん、先ほどあげたような人たちだってそんなホイホイ目標を見つけて、努力できた人たちだなんて思ってないよ。見えないところでたくさんたくさん悩んで、迷って、考えて、努力した。その結果が今私の目に映っているんだってことはわかっている。(きっとその人たちがしてきたような膨大な努力や苦悩が私にはまだ足りていないことも。)

でも、でも、でも、気づいたら自分をその人たちと比較してしまう。私は何に向かって生きているのかなって思っちゃう。追っかけるべき太陽が見つからなくて、どの方向に太陽が出ているのか見当もつかなくて、あっちゃこっちゃ向きを変えている気分。私はなんでここに植ってしまったんだろうって考えちゃうんだよ。ここにいる意味はなんなんだろうって。

ふっと予定に余白ができたときでさえ、あれやりたい!これやりたい!って思えるものが見つからなくて、私には小さな余白にさえ、やりたいことがないんだって悲しくなっちゃうんだよ。


でも、1年前の自分が言ってた。

本当にやりたいことはなんだろうって最近よく考える。やりたいことが見つからないのは、自分が軸の人生じゃなくて周りに左右されがちな人生を生きてきて、自分のことがわかっていないからかもしれない。最近よく悩むのは、コロナ禍で人と関わる機会が減って周りの人を軸に生きていた私の軸が消えかけた結果、何にも残っていない自分に気付いたからかもしれない。自分が少しでも興味を持ったらパンクしない程度にいろいろトライしてみて、自分のやりたいこと、興味、得意なこととかを知っていけたらいいのかなあ…とか考えてる。

そんなに急がなくてもいいのかな。

「少しでも興味を持ったら挑戦してみる」

これは私が高校生後半くらいから特に意識してきたこと。もともとビビリで慎重派な私は、挑戦する前でピタッと止まって回れ右してた。当時の自分が嫌で嫌で変わりたくて、気になることはいろいろやってみようって意識するようになって。気付いたらここ数年、だいぶいろいろと未知なことに取り組んできたと思う。

その中で太陽となるもの、本気で全力で追っかけたいと思えるものには出会えていないけれど、この挑戦がいつか意味のあるものになればいいななんて思う。

そしてあわよくば、本気で全力で追っかけたいと思えるものに出会えたい。


いや本当は、「出会いたい」じゃなくて「出会う」って言わないといけないのかも。自分で探しにいかないといけないやつだよね、これ。

でも、ちょっとまだ「私は本気で全力で追っかけたいと思えるものを探しに行くのです🔥🔥」って言えるほどではないんです。正直言ってしまえば。


まずは、ここで枯れないように生きていくことから。かな。







最近、人生難しいなあって思いがち。




では、素敵な1日なりますように。