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西成に16年間住んで① ~ ホームレスの人や生活保護について、思うこと・考えてきた事 ~

 ホームレス(路上生活者)の方が多い事で知られる街(※1)、大阪市「西成区」は、生活保護受給率が高いことでも知られていると思う。
ホームレスの人や生活保護の問題は、過去16年間、西成に住み生活していた私にとっても、とても身近なテーマ・問題であったので、わたし(この「わたし」には当然在日コリアンである私が含まれる)が感じてきた事や考えてきた事を中心にこの記事では取り上げ、伝えたいことを書きたい。

▽「ホームレス」という言葉の定義だが、現実的に路上で寝泊まりしている路上生活者、野宿生活者と呼ばれる人のみならず、「その路上生活、野宿生活に至るおそれのある人々」も含めて捉える意味で支援者側では使われたりするようだ。私も非常に勉強不足なのだが、西成では、実際シェルターや簡易宿泊所などで生活している人々が非常に多いと思われるが、そのような方も含めて、この文章では「ホームレス」と表現させて頂いています。


わたしを構成する町「西成」-いち生活者として-


大阪市西成区-その中の一部の地域について、「釜ヶ崎、日雇い労働者のまち、あいりん地区」とも表現される町。

西成区内といっても広く色々あり、ホームレスの方は恐らく「あいりん地区」と呼ばれる一地域の場所に集中していたが、私はまさにその地域に、14歳だった1993年から2009年まで生活し、実家を出てからも、(実家が)又、別の市内の区へと引っ越しする事になった今年5月迄のほぼ毎週末12年間、西成に足を運んだことになる。(以下、私の住んでいた地域について、自分にとって最も自然な表現の「西成」という言葉を使いたい)

自分自身を構成するワードを挙げるとするならば、私にとって「西成」は、かなり上位にくることになる、自分と、自分の家族の町、という気がしている。


西成にいて気づくこと
 引っ越しもいよいよ大詰めの直前期、今年のGWは毎日実家に通う中、YouTube動画を撮影している若者も一度見かけたりもし、「変なことゆってないやろな」と最大限の睨みの視線を送ったりもした。そんな数日の日々の中でハッと、させられる出来事が2つあった。

1つは、道を歩いていて、前からリヤカーを引いているすごく細い脚の人が通り過ぎたと思ったら、女性の恰好をしている高齢の男性(生物学的の意味で)の方だったこと。
その方が路上生活者の人なのか、あるいはどこかに居を借りて(簡易宿泊所など)、生活している人かは分からないが、私の中ではいつも西成といえば「西成のおっちゃん」という言葉が胸に浮かぶのだが、よく考えたらセクシャルマイノリティの方が中にはいてもそりゃ当然おかしくないという事に気づく。

この方はその後ももう一度見かけたのだが、地元の酒屋さんに缶を収集する際、酒屋さんに「ありがとう」と声をかけられているのを見かけ、地域に根差して生活しているのだなと思い少し安心する思いだった。


そして2つめは、引っ越しの前日、どこからかともなく鳴り響く太鼓の音とともに、デモをしている声が聞こえ、次第にどんどん大きな音となり私の実家の前をゆっくりと通り過ぎていった事。

それは、昨年2020年4月政府が決定した新型コロナウィルスの経済対策として1人あたり一律10万円を配る特別定額給付金を、住民票がないホームレスの人は受給できていない事を訴えているデモだった。
「給付金もらってないぞ、10万円もらってないぞ、おれらはもらってないぞ!」

ドンドンという太鼓の音とともに、リズムをつけてそう訴える若者の怒りの言葉とそれに続くデモに参加している人たちの掛け声は、通り過ぎた後も長い間、私の頭の中で引き続き、ドンドンと鳴り響いているような気がした。

私は、昨年住民票のない人が給付金を受給できないことをニュースか何かで知った時、勿論とても心を痛めたが、でもやっぱりその後自分の中で、そのことについてと自分とに「隔たり」があり、又近づこうともしていなかったのだなと改めて思った。西成にずっとつながりがあったにも関わらず。

これらのテーマについて本を読み学べばよかったとか、ああすれば良かったとか何かそんな単純な反省の話でもなく(もちろん反省する気持ちはある)、うまく言えないのだが、自分の生活に埋没していてやはり正直「忘れていた」自分に気づいたということ。

だから太鼓の音のデモは、私に何だかやはり突き刺さるように鳴り響き聞こえたのである。

↓ご参照:「路上生活者、給付金もらえず 住民登録 高いハードル」東京新聞


ひとりひとりの名前と顔 
-偏見と、そして見えないものを想像すること-


この町に引っ越ししてきた14歳の時の事を少し振り返る。
実は、わたしは初め、ホームレスの人たちに対して偏見を持っていた。
その事について、大人になり出会った在日コリアンコミュニティの機関紙に、13年前に書いた自分の詩(と呼べるほどのものではないです)があるので、恥ずかしながら掲載したい。

溶  解

14歳の時 引っ越してきた町 西成 釜ヶ崎
はじめは ホームレスのおっちゃんが
嫌で怖くてたまらなかった

でも ある日学校で
西成のホームレスのおっちゃんたちひとりひとりに
インタビューしたビデオを見て
私の中にあった嫌悪と恐怖は消えた
同時に
同じ人間として見ていなかった自分を恥ずかしく思い
心の中でおっちゃんたちに謝った

知らないことで生まれる偏見
歪んだ知り方をして生まれる偏見
つくられる偏見

ひとりひとりの顔と その背景を知ることで
人が思わず持ってしまう偏見を
溶かして 解いていけたら

持つまいと思っていても
それと気づかず いつのまにか持っていたりもする

でも きっと溶かしていける
「それは ちがう」と気づいた人が
ひと声 伝えていくことからでも

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ここに書いているように、私は引っ越しして数カ月ほどホームレスの人に偏見をもっていた。

言い訳のようになるけれど小学校の時西成区とは別の区内に住んでいた私は、大人の男性に性器を見せられるという事を2回経験しており、当時大人の男性に対する警戒心が強くそれも一つの要因になっていたとは思う。

がでもやはり単純に、ホームレスの人たちに対して偏見を持ってしまった事は、確かである。

学校で見せられたビデオでは、西成にいるホームレスの方々何人かへ、インタビューした映像が流れていた。

ひとりひとりの「名前と顔」が映り、どこから来たとか、故郷はどこであるとか、過去結婚していたり子どもがいたり家族がいた人や、またずっと一人だった人、過去こんな仕事をしていたが今は仕事に就けず、西成に流れついたという経緯などを話していたり、また生活の中での「ささやかな楽しみ」なども話していたような気がする。

自分と同じように生きている人たちなのに、私は全然そのように見る事が出来ていなかったなと痛烈に思い知らされた。

路上生活という劣悪な住環境で生活すると、わたしもこの記事を読んでいる人も、又どんなに経済力がある人でも全て同じように、衣服は汚れ、体は臭いを放つ事になってしまう、そんな当たり前の事に気づけなかったという事だ。
また当時もあった少年らによるホームレス襲撃事件の事を学校の先生に伝えられ、私は自分がもったその偏見が、人の命を奪いかねないものにつながるという事を、中3の時に身をもって実感しその事をとても恐ろしく思った。

そして今も、このような偏見から人の命が奪われる同じ事件が過去からずっと絶え間なく起きている。
   ↓↓
昨年2020年11月、都内のバス停で路上生活者の60代の女性が男に突然殴られ、死亡した事件。(私はこの事件を最近ようやく知りました。)
※丹念に取材された、割と長さのボリュームのある記事になります。



 「見えなくさせているもの」とは何かを問う事、そして変えていく事


先ほどの詩に書いたように、ひとりひとりの人に名まえと顔があり、人生があるという事。
もちろん現実的・具体的に名まえや顔を知らなくても、そんな当たり前の事を想像・イメージできるという事が、とても大切な事だと思っている。

またホームレスの人たちに対してだけでなく、全ての問題や、自分が人を見る時に共通するテーマになると思うが、
それらひとりひとりの名前や顔を、「見えにくくさせている」制度やシステムがあったり、又メディアの報道の在り方の問題もあると思う。

そのような制度があるならば、無論すぐに改善していかなければならないし、報道については、まずはメディアを見る側の私たちが、ひとつひとつの報道の中身や伝えられ方について今一度、主体的に読み解く事が求められる。

人の名前や顔をイメージさせにくくし、ともすると人権侵害につながるという事でホームレスへの襲撃事件以外で述べると、

ある特定のカテゴリーの方、例えば今まさに問題になっている「不法滞在者」と呼ばれる非正規滞在者の方たちを、その言葉でもって管理対象としてしか見ないようにし、人権侵害の実態を放置している現在の「入管制度」の問題が、挙げられるだろう。

また他には、ある特定の「国」の事を、そこに住み、私たちと同じように日々暮らしを営む「人」がいるという当たり前の事を、見えなくさせるような報道の在り方の問題も思い浮かぶ。

そんな中、当事者支援に携わる人や団体が、そこに生きる「人」の姿を様々に伝えてくれていたり、又最近では映画という媒体でも伝えられている動きを見て、何とかほっと救われる思いになる。


生活保護と父、父の「苦しさ」

生活保護について述べると、私自身が生まれてから高校を卒業するまでずっと生活保護家庭で育ったという事で、そこから自分が感じてきた事を書きたい。

私が生まれる少し前の父が45~47歳の頃、細かい事は書かないが、身体の事情があり父はもう次の働き口を見つける事が出来ない状態で、私たち家族は生活保護を受給する事となった。だから私は一度も父が働きにいく姿を見た事はない。

子どもの頃、父が働いていない事、そして自分の家が生活保護を受けている事は、在日コリアンである自分の出自と同様に「隠す」ように親から教えられた。
私は小さいながら「何か隠さなあかん事がうちの家は多くて嫌だなぁ」と思っていた。

父の苦しさについて
 在日朝鮮人である父の苦悩は、父という人間存在そのものとイコールであり、いま思えば非常に複雑で捻じれた見え方をしていた為、子どもの頃の私には理解が難しかった。
それは大人になり父の死後、歴史を知る中でようやく一つ一つ洗い出し、長い時間をかけて理解する事になったという事がある。

何が言いたいかというと、子どものころ、私から分かりやすく見えていた父の一番の苦しさは、「働けないということ、生活保護を受けていること」に起因するものであった。(それでもやっぱり在日である事は関係してくるのだが)

生活保護を受ける事になり、父曰く、行政の担当者に嫌味を言われた事が何度かあるそうで、だから「客観状況」よりも、担当になる人のジャッジの裁量次第によって、つまり民族差別により、「いつ生活保護を打ち切りにされるかわからない」という強い恐れを、父はずっと持っていたようである。

もちろん運悪く父はそういう経験をしてしまったのであり全ての担当者がそうだったとは思わない。しかし今よりもやはり1970年代後半は、差別意識が社会の中で濃厚にあり、そのような事があったとしても全く不思議ではないとも思う。だから家庭訪問の日が分かれば数日前から家の中には緊張の空気が走っていた。

「働きたいけど働けない」「生活保護を打ち切られたらうちはもう生きていけない」父はよくそう言った。

 また私の母は1973年、28歳の時に来日したニューカマーであるが、「韓国の家族に会いに帰ったら経済的に余裕があるとみなされ、生活保護を絶対に打ち切られる」と父は思いこんでいた為、その為に私が成人するまで、母は何十年と渡日以来、一度も帰郷する事ができなかった。(私は結局両親とも祖父母に一度も会えなかった。) 

現実的には長年本当に生活の余裕がなく韓国の家族に会いに行けなかった、という事が大きいのだが、それでも「病気の家族がいつ亡くなるか分からない状態なので、韓国に会いにいってもいいですか?(生活保護は打ち切られないですか?)」とか、「亡くなった家族の墓参りに韓国に行きたいが、生活保護は継続されますか?」などと聞くことすら、父には絶対に出来なかったし選択肢として考えた事もなかったのではないかと思う。

それは戦後、国民健康保険や年金制度に長らく加入できなかった在日朝鮮人の歴史があり、(この記事を書きながら改めて気づいたのだが)父が45~47歳の生活保護を申請した1970年後半時点においてさえも、父はまだ制度上保険に加入できない状態である。(1982年に国籍条項撤廃:詳細は後述)

日本の社会福祉制度から「国籍」を理由に、容赦なく切り捨てられてきた父がそのように考えたのも当然だと私は思わざるをえない。

そんな簡単な事、聞けば良かったし、行動しなかったが為の自己責任だと思う人もいるかもしれない。
がしかし、先進国のこの日本で、生活保護を申請できずに餓死する人もいる事にも通じ繋がるものがあるが、何かに追い込まれ「声を発せられない人、助けを求められない人」がやはり多く存在するのだ。

そして、父やその人たちを追い込んでいたものとは一体何か、それは勿論わたしたち社会の側にある問題なのである。当然ながらそんな社会で生きることは、誰にとっても非常に生き辛く苦しいものであるだろう。

そして私が思春期になった頃には、テレビで人の命が奪われる悲しい事件や事故があると、「かわいそうに、おれみたいな人間が生きて、、、」とか「おれみたいな人間が死んだらいいのに」という事を、父はよく口にするようになっていった。また「死にたいけど死ぬ勇気もない」と自分を責めるようにいう事も度々あった。

父が色々な意味で社会的に孤立していたのは明白であった。結局私が19歳の時に、父はガンで亡くなったのだが、父は自死をする可能性だって充分あったのだとわたしは思っている。そしてその事を思うと、とてもとても辛い思いになるのである。

中学生の時のわたしは、そんな父の言葉を耳にするのが辛く、又たまらなく嫌だった。

その時の私は、「社会と自分の家族の繋がり」なんて当然考えた事もなく、またそれらを手繰る糸もすべもなく、ただただ自分の家族が抱える悲しみや苦しさに圧倒されて、やり場のない気持ちを感じていた。
それは言葉にすると「人間は結局、自分に関係がなければ、他の人のことはどうでもいいのだ」という思いだった。(どういう思考回路の経緯でそう思ったかは思い出せない)。

それは怒りと呼べるほど知覚的なものではなく、また悲しみや絶望といえるほど高潔なものでもない―。ただただ、自分も含めた「人間に対する嫌悪感」のようなもの。それがじわじわと、自分の心の中に黒いインクが染みわたるように広がっていくのを感じていた時期が確かにあった。


2012年から2021年になり
そして時は経ち、2012 年週刊誌にて「芸能人のお笑い芸人の母親が生活保護を受給」と報道された事をきっかけに、生活保護バッシングが氾濫したが、その時私は報道をみていてドキドキさせられる思いであったが、しかし様々なNPO関係者や法律家の方たちが抗議している声の内容を見聞きする事で、とても救われるような思いになったのを覚えている。

またそれ以前にあった「ネットカフェ難民」とか「女性の貧困」「子どもの貧困」といった言葉も、より社会の中で耳にする事が増えたように思う。

2012年、問題は顕在化したけれど、貧困問題や生活保護に関する問題は、まだまだ根強いスティグマはありながらも、でもむしろ過去よりいい方向にきたのではないかと私は思っていた。

しかし2021年の今、そのような地道な努力による歩みの成果をいとも簡単に否定するような今回のDaigo氏による言葉の暴力の出来事があり、それに影響される人がいるのも確実だと思うしその事を思うと本当に残念である。

私は、生活困窮者支援の4団体の緊急声明により具体的な彼の発言を読んだが、実際の動画を見る事はしんどくなりそうで今のところやめている。

時間をかけてようやく築きあげられてきた好転的な変化が、どうかバックラッシュしないよう切に願うばかりである。


問題と問題の「つながり」について ~ホームレス、在日朝鮮人、生活保護、またその他のこと~

1つ前の私のnoteの記事で「植民支配の歴史と在日コリアン」について書いたが、そのために私は戦後の在日朝鮮人の生活についての資料を読みなおしていた。
ホームレスの問題を考える時、やはり私にとっては、かつての戦中戦後の「朝鮮人部落」の事が想起される。
不衛生で劣悪な環境だった朝鮮人部落は日本当局から撤去させられもし、(ホームレス問題とは、民族差別の有無という大きな違いはあるも)周りの日本人からは、蔑視と排除の目で見られていただろう。
そのまなざしは又14歳の時に、私が一度持ってしまったホームレスの人への視線でもあり、又今回のDaigo氏の発言にはびこる視線でもある。

そしてひとりの人間を、同じ「人」として見えなくさせる偏見や制度のあり方は、今まさに問題になっている入管制度の問題にもつながってくる。

ホームレスの人が、住民票登録がないが為に、本来全ての「国民」に支給されるべき給付金を受給できなかった制度の問題は、かつて在日朝鮮人の歴史が国籍差別により、健康保険や年金の加入から長年除外された事とまさに通じる問題であるといえ、又、生活保護を受けていた事による父が抱えた「苦しみ」は、在日朝鮮人である事によるもののみならず、同じく生活保護を受けざるをえない困窮状況の人々が抱える、生きる事への大きな不安や、生活保護にまつわる社会的なスティグマ(負の烙印)により、自己否定に追い込まれた人々の苦しみである。


これら書ききれないほどある問題と問題の「つながり」。

その中で時間と空間を超えて交差する人間の排除の視線の「まなざし」を思うと少し頭がくらくらするような感覚を覚える。

ひとつひとつの問題は勿論個別的に異なるのであるが、問題の根底に1本の線のようにつながるように見えるそれらについて、又少しずつでも考えていきたいなと思う。


おわりに ~わたしのテーマ~


冒頭の文章で述べた給付金不受給を訴えるデモと太鼓の音は、「見えないふり」をするなと私に言っている気がする。またかつての14歳の私からは、「お前もそうなのか?通り過ぎたらお前も忘れてしまうのか?」と、現在の自分に問い、呼びかけられている気がする。
なぜか今年に入って特にそのような思いが自分の中で強くなってきた。
うまく言えないけど、人間に対して嫌悪感を抱いたあの時の14歳の自分を、決して置いてけぼりにしないよう自分から過去のわたしに「繋がり」生きていくことが、これからの私の人生におけるテーマになりそうだなと、最近そんな事をよく思う。
2021.8.21


※「西成」についてはもう少し書きたい事があり、いつになるかわかりませんが、同タイトルの続きを書きたく、今回のタイトルは、①としました。



●補足点や、その他読んで頂きたい追加資料など

この文章は、問題について何か体系的・具体的にお伝えしたものではなく、私の感じている事や経験を中心に書いたものなので、
その書いた事の補足の意味で、下記に一次情報や追加情報として記載・掲載させて頂きます。
また決して充分な形でお伝えできていない事を事前に申し添え、お詫び致します。
↓ ↓ ↓ 
部分的でもいいですので、気になるところ、知らない項目からまず読んで頂けたら嬉しいです。
↓ ↓ ↓ 

〇補足:特別定額給付金について
・釜ヶ崎支援機構が大阪市との交渉の結果、西成ではこのような成果もあったようです。
 ↓
「ホームレス状態で生活する方の特別定額給付金 要件が緩和され申請がしやすく(2020年8月)」を報告いたします。
大阪市との交渉の結果、昨年8/16までの集計で、118人の方があいりんシェルターに住民票をおくことができ、特別定額給付金の申請に進むことができたそうです。(PDF貼付できなかったので詳細は下記の中、オレンジ色の上から6個目のタブの中に報告書がございます。)

▼釜ヶ崎はやはり支援の力が強いという特殊性がある。全国的に見れば地域差があり、その他の地域はより厳しい現状があったり、又西成においてさえもやはり制度の壁により給付金をもらえていないホームレスの方もいると思います。


〇補足:「大阪におけるホームレスの状況」

 大阪におけるホームレス問題は、1990年ころから目立ち始めたあいりん地区日雇労働者の失業によるホームレス化から始まりました。失業の要因はバブル経済破綻による建設産業不況と建設現場の機械化による仕事の減少です。1998年調査ではほとんどの人があいりん地区生活の経験者でした。
 その後、労働者派遣法のネガティブリスト化・期間の延長・製造業務等への解禁等があり、倒産やリストラによる失業者が派遣労働者等として不安定就労化し、新たに野宿生活者とならざるをえない人たちが増えはじめ、全国では2003年に最大数字となりました。その後、あいりん地区の日雇労働者が高齢化等で生保の適用等で減少する一方、日雇労働経験のないホームレスの人達が増え始めました。
大阪ホームレス就業支援センターのサイトより

→※1
厚生労働省の全国調査によると、2020年全国で3,992人とされるホームレスのうち1,038人が大阪府におり、全体の26%を占めている。
また国勢調査によると「西成区」は、大阪市内における65歳以上の高齢者が占める割合も高く、結核の発生数・発生率は1位である。
▼私が西成に住み始めたのは、1993年頃であったが、今と違い「あいりん地区」には多くのホームレスの方がいたと記憶している。現在は実際、シェルターや簡易宿泊所などで生活する人が増えているなど、路上で生活する人は、私の10代の時よりかなり減少したように思われる。


〇あとを絶たないホームレス襲撃事件
2020年3月岐阜市で路上生活をしていた方が少年らに襲撃され亡くなった事件の少年らの供述。

上記のように、死亡事件にまで至らなくても、ホームレスの人は日常的に暴力を受けるなどの嫌がらせを経験している人が多い。特に、人目が少ない河川敷などで生活するホームレスの人はよりその傾向が高いようです。

また、下記ではDVD『「ホームレス」と出会う子どもたち』(基本編30分/2009年/製作:ホームレス問題の授業づくり全国ネット)が、
▼9/30まで無料公開されるようです。(飯田基晴さんTwitterより)
 ※当初の8月31日までが、延長に。



〇生活保護について
下記は、生活保護についての日本社会での捉えられ方(忌避する国民感情)など、その全般の問題についてわかりやすく述べられているインタビューでしたので是非、お読みください。


全ての人の「生」を肯定する――生活保護はなぜ必要なのか/つくろい東京ファンド代表理事、稲葉剛氏インタビュー - SYNODOS (2017.12.29)

また生活保護の不正受給についてこのインタビューの中で、稲葉氏は下記のように述べている。

予算ベースでいうと全体の0.5%以下です。ごく一部なのですが、あたかもそれが蔓延しているかのような印象が植えつけられている。メディアでも生活保護の問題が取り上げられる、といえば不正受給の話になりがちで、受給漏れの問題はほとんど取り上げられません。


〇在日コリアンと社会保障における差別
在日コリアンは、戦後も長い間、国籍を理由に様々な制度の枠から除外されてきた。
1979年日本の国際人権規約加入、1982年難民条約の批准とあいまって、長年の粘り強い運動の結果、1982年にようやく国民年金法や児童手当に関連する三法などから国籍条項が撤廃されるなど、現在はほとんどの社会保障法から国籍条項はなくなっている。
だが、国籍条項撤廃がなされたとき、無年金が生じないような経過措置が取られなかったため、一定年齢以上の外国人の障がい者および高齢者が、無年金のまま放置される事になった。

▼私の家族の話
私は、今回はじめて父の年齢と照らし合わせてみたのだが、この国籍条項が撤廃された1982年時点で、2.3歳の頃日本にきた父は、何と既に51歳である。(生活保護の申請はこの数年前に申請)
本当に日本は、旧植民地出身者の権利権益の問題を長年にわたり排除・放置してきたという不条理さと、その中には「ひとりひとりの人生」があったという事を改めて強調しておきたい。



〇外国人の生活保護について
「急増する困窮外国人のいのちを守れ!『本国が保護すべき』という論理を超えて」(大澤優真さん)


上記も是非お読み頂きたいです。(既にお読みの方もいらっしゃるかもしれませんが)
外国人の生活保護制度はどうなっているのか?や、既に多くの外国人が生活しているこの日本社会において今後求められていく事が、的確に書かれていると思います。


〇ビッグイシューについて
ビッグイシューとは?
→ホームレスの人の社会的自立を応援する「ビッグイシュー日本版」は、ホームレス状態の人が路上で売る雑誌で、450円で販売され、そのうち230円が路上販売者の収入になります。(様々な有名人のインタビューや特集コーナーなどその内容は豊富である)
自分に出来る事として、町でビッグイシューを販売している人に会ったら私は買うようにしてきている。そしてビッグイシューは、内容も読みごたえがあり、面白い。
現在は、第6次「コロナ緊急3ヶ月通信販売(7月~9月)」があり、昨年一度だけ購入させてもらったが、今回を機に再度申し込みたいと思う。
(それぞれが出来る形で出来る範囲の支援を。)
でもまずは関心をもって情報を集め「知る」ことと、自分に引きつけて考える事が、とても大切な事だと思います。


以上、お読みいただき、ありがとうございました。