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「在日コリアンの存在は、日本の植民地支配と何の関係もない、普通の移民と同じだ」と述べるあなたへ、あるいはそう考える誰かへ

当該記事に関して、至る所に事実と異なる点がある為、取り上げご指摘させて頂きます。

― 取り急ぎの回答・歴史の初歩的な説明に替えて ―
最初に述べておきますが、あなたの記事は事実情報として書かれていない不足点も多く間違いが多い事に加え、導き出したタイトルの結論の間違いぶりはあまりにも酷いのと、また私の記事から端を発している事から放置・看過する事もできず、勝手に私からの「回答」としてお伝えさせて頂きます。
述べられた内容について私は多々否定する事になりますが、あなた自身を否定しているわけではないのでくれぐれも攻撃されているなんて誤解せず、出来るだけ素直にまっさらな気持ちで読んでほしいです。でないと時間をかけて丁寧に書いている意味がないので。
私は本当の歴史を知ってもらうためにこの文章を書いています。
長いですが、noteの記事を書いたあなたと又そのように考える人へは、分けてでもいいので最終的にはやはり「全て」最後までお読みください。
それ以外の方は、目次のどこからでも気になる部分だけでも、読んで頂けたら幸いです。記事の中で在日1世のハルモニたちの詩(2つだけですが)をご紹介しているのと、在日1世の私の父の話も書きましたので、是非これらは読んでいただけると嬉しいです。


はじめに  -あなたの文章を読んで-


奇妙な ー、そして不思議な文章だなと思った。
日韓併合や植民地支配は認めるけれども、「在日コリアンの存在はそれらと何の関係もない」と結論づけられた文章。
何というか日本語の文章としては主語があり述語があり成り立ってはいるけれども、その「意味」を考えた時にはまったく成立しえない破綻をきたす文章。
記事全体でもそう。在日朝鮮人の人口数や、渡航制限、4.3事件に朝鮮戦争。
ひとつひとつの事実根拠(結論を導くには恐ろしいほど軽々しく少ないが)は事実なのだが、その断片的な事実をつぎはいだ結論は、歴史の真実とはおおよそ異なるという内容。
何故だろうと考える。
それは、書かれている「日韓併合」や「植民地支配」という、4文字と5文字からなる言葉のその内実を知らないか、知っていてもこれまた空虚な言葉上のものとしてしか認識出来ていないからなのではないだろうか。
でもそう思うと、よくよく考えたら私も20歳頃在日コリアンコミュニティに出会い学ぶ機会をもてる迄、そういった歴史を本当には詳しく知らなかった。(植民地支配については勿論認識していたがその具体的な事は、ふんわりとしか分かっていなかった)

だから不本意ではあるが、意外とこんな風に何となく捉えている日本の若い人も多いのかもと思ったし、又日本の歴史の授業で教えてもらえなかった過去の自分のように、在日コリアン(国籍問わず朝鮮半島にルーツをもつ人)の人が「自分がなぜここにいるのか?」について曖昧にしか理解できていない人も少なくないのではとも思い、その問いに対して事実を少しでも知れる機会になって頂ければとも思った。
だからこの文章は、記事を書いたあなたとそれ以外の誰かに対してある意味、複数の人たちへ向けて書くことになると思います。(でも記事を書いたあなたは自分自身に向けられたものとしてしっかり読んで下さい。)

この私の文章では、まず基本認識となる 
①植民地支配の内実についての基本史実を具体エピソードを添えてお伝えすると共に、あなたのnoteの文章で書かれていた
②具体的な2つの点についての認識の誤りを指摘し、正しい事実を伝えたいと思う。


▼植民地支配の中身

〇日本の植民地支配の実際の中身
※後述①
1905年11月 乙巳保護条約により韓国統監府が設置され、朝鮮は外交権を喪失しました。(韓国統監府の初代統監は伊藤博文で、これは日本の歴史でも習いましたよね)

1910年  韓国併合
「併合」によって朝鮮は日本の領土となり、朝鮮人すべてが「日本帝国天皇の臣民」になりました。このときから朝鮮人全員が「日本国籍」になったのです。
(但し、日本国籍といっても朝鮮人は、日本人とは異なる戸籍に登録され、法的に厳格なに区別されており朝鮮では選挙も行われず直接的な軍事支配におかれました)
 ↓↓
ここから以下は、●印が、在日朝鮮人人数について記しており、あなたがnoteで掲載してくれた下記のグラフの推移数と合致するので照らし合わせながら読んで下さい。

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(植民地支配の具体政策)ー在日朝鮮人の推移数とともにー
□その①:土地調査事業(1910年~1918年)=大規模な土地の収奪事業

当時の朝鮮では厳密に土地の所有権は確定していなかったが、この調査は日本がより多くの土地を管理し、各種納税で利潤を得る為の政策であった。具体的には、自分の土地の所有地などを申告する事になっていたが、手続きが複雑であったこと、申告が日本語であったことなどで届け出ない農民が多かった。→これにより申告期限切れや形式の不備などで土地を奪われる農民が続出し、貧困層が飛躍的に増加した。

この政策により日本政府の地税収入は2倍に増えたが、当時の朝鮮では約80%が農民であった為、それ以前の生活は破壊され、仕事がなくなった人々は日本や中国東北地方(満州)、シベリアに移住せざるを得なくなった。
●1911年2527名であった在日朝鮮人人口は、この政策後の1920年には、約3万名となり、その政策の影響が大きかったことがわかる。

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□その②:産米増殖計画(1920~1934年)

これは水路や道路を整備して米の生産量を増大させる農業政策であったが、この結果、米の生産量は増えたものの、増えた米のほとんどが日本に運ばれて、この時期、逆に朝鮮人ひとりあたりの米の消費量は大幅に減ることになった。
農民は増えた生産物を自分たちでは食べる事が出来なかったのだ。
●1920年に約3万名であった在日朝鮮人人口は、1920年代を通じておよそ10倍に急増し、1930年の段階でおよそ30万人の朝鮮人が日本に存在する事になる。

  ↓
そして、その後の在日朝鮮人数の増加について
  ↓

・1930年代 「満州事変」をかわきりに、中国大陸を本格的に侵略しはじめた時期。上述の土地調査事業から産米増殖計画による生活苦から日本に流入する朝鮮人は激増。
朝鮮はこの中国大陸侵略の「兵站基地」とされ地下資源をはじめ多くの軍需的工業資源が収奪される。日本人男性が兵隊として戦争に駆り出され労働力不足となった人員を補う中、在日朝鮮人は非常に差別的な賃金で働かざるをえなかった。
1930年時点で約30万人だった在日朝鮮人数はおよそ50万人増え、1938年時点ではその数は、およそ80万人になる。

・1940年代 この時期は一番増えた時期でさらに多くの朝鮮人が日本にくる事となる。
●1939年に96万人だった朝鮮人は1945年の敗戦時には210万人以上にも増えました。まさに「強制連行」によりその人口が増えた時期である。(強制連行について詳細は、後述②)

以上、お分かり頂けたでしょうか。
これらから、あなたが書いた

「1910年以降、日本へ移住する朝鮮人が急増したのは事実ですが、これは日本の経済発展が主要因にあり、日韓併合はたまたまタイミング的に同じだっただけ」

という上記とは、歴史事実と全く異なり間違っている事が分かります。

日本が朝鮮人から土地と米を奪う「植民地政策」があったから日本の経済力は強くなったが、他方、食べて生きていくために朝鮮人たちは、当時同じ「日本国」である宗主国のこの土地に海を渡って多くの人がやってきたという事。そうでないと誰が、自分の故郷を離れるでしょうか。「そうしないと生きられない状況下があった」という事、又その状況は、当時の日本が「国策」として作り遂行した、という事を絶対に踏まえないといけません。

□植民地時代の在日朝鮮人
植民地時代、朝鮮人は「ヨボ」「鮮人」「半島人」などと侮られ辱められました。また当時の日本では、同一労働に対して日本人の半分の賃金しか払われない差別賃金制度が当然とされ、日本人の住めない低湿地や河川敷など非常に劣悪で不衛生な土地に住み着き、朝鮮人部落が形成されていきました。


●植民地支配の暴力を「痛み」をもってより具体的に想像してもらう為に


ここでは5つの事について、取り上げお伝えしたいと思います。

①笞刑(チケイ)について
植民地時代、朝鮮人を弾圧するため様々な治安法令は発令されました、笞刑もその内の1つです。笞刑とは、ムチ打ちの刑である(想像される皮がしなるムチではなく、竹の棒みたいなムチ)。
これを日本国は植民地支配のときに活用し朝鮮人だけを対象に行いました。これは非常に残虐な行為で命を落とす人もいました。
朝鮮人による1919年3.1独立運動(植民地支配に対する大規模な抵抗運動)の際、逮捕された朝鮮人は5万名近くにのぼり、合計7500名以上が殺されたといわれていますが、この逮捕者のうち、笞刑を加えられた者の総数はおよそ1万名以上にのぼるといわれています。


②ハルモニの詩より -産米増殖計画下でのようすー
以下は植民地支配下の朝鮮で、農民が米を日本にもっていかれた事(産米増殖計画)について書かれた1世のハルモニ(おばあさん)の詩をご紹介します。

せんそうはんたい  

 むかしのちょうせんではにほんの
 けいさつというとみんなふるえあがって
 いました。じぶんたちはむぎ、あわをたべ、
 おこめはみんな공출(コンチュル)といって
 にほんのへいたいさんにもっていかれ
 ました。しんちゅうのはしやスプーンも
 もっていかれました。
 おこめはすこしうちのにわにうめてかくした
 ことがみつかり아버지(アボジ)がつれて
 いかれてあしに松の木をはさんですわら
 せられたとききました。

                         呉琴祚さんの詩

공출(コンチュル):「供出」の意。総動員か体制下の朝鮮では、米をはじめとして様々な物資の供出が強要された。
아버지(アボジ):お父さん
     「わたしもじだいのいちぶです」より



③「皇民化政策」とは何か-それがいかに人間性を剝奪する行為であったか という事-

皇民化政策とは、朝鮮民族の文化的伝統、言語、風俗、習慣のことごとくを「劣ったもの」として否定し、「天皇の赤子」として日本へ吞み込んでしまおうとする人間性をことごとく破壊する政策であったといえます。それは日本のアジア侵略の激化に伴い、極限までに推し進められました。

内容は、神社参拝の強要や、日本語の強要(朝鮮語の禁止)や、1939年に公布された「創氏改名」などがそうです。たとえば創氏改名をしない人は、警察に日常的に徹底的に監視・いやがらせをされ、子どもの学校の入学拒否や食糧配給対象から除外されるなど、あらゆる圧迫をうけました。こうした結果、当初抵抗していた朝鮮人のおよそ八割が、創氏改名に追い込まれる事になりました。
また皇民化政策について以下の資料もお読み頂きたい。

「皇国臣民の誓詞」というのは「われらは皇国臣民なり」で始まる三ヶ条の誓いで、これをすべて朝鮮人がして、呼び止められればいつでもそれを朗々と述べることができるようにするというものです。
(中略)そのとき就学率は大体三割ぐらい。それもほとんどは男だけですから、日本語を日常語として使える人はほとんどいないのです。一般の朝鮮市民にとってはそれはおまじない同然なのですね。
ところが道を向こうから歩いてくる朝鮮の農夫に巡査が「ちょっと待て。皇国臣民の誓司を言ってみろ」と言う。それで舌がもつれると「貴様、まだ大和魂ができていない」ということで老人に若い巡査がビンタを張る。そういうことを当たり前のようにやっていた。そういう時代です。

「秤にかけてはならない」より



④ 民族差別について
―ある日本人の方が戦後書いた個人新聞での手記-

加藤敦美さんという方は、戦後、個人新聞(赤木谷絵入り小新聞)に、自分の体験を書き続けてこられました。加藤さんは、当時の満州の南端、鴨緑江という川を挟んで朝鮮の対岸に位置する安東(アントウ)という町で育ちました。支配する側の民族として植民地に暮らす人の事を「植民者」といいますが、加藤さんのお父さんは南満州鉄道の職員で植民者のエリートでした。

「天皇はあやまれ!-朝鮮・私の原体験から」という文章には、ある朝鮮人の子どもと日本人教師との間に起こった、日本人の民族差別意識にまつわる出来事のようすが書かれています。
引用しようと思いましたが、非常に心苦しい強烈な内容なので色々考え、長さの関係もありここでの掲載は敢えてやめますが、是非「在日朝鮮人ってどんな人?」という本の中で取り上げられているので(P34)、本の中で、流れをもってこれについても読んでほしいです。

加藤さんは子どもの時にご自身が見た、民族差別による「非人間的な出来事」の数々を、戦後、吐き出さずにはいられなかったのでしょう。 そして、そこに描かれている場面は決して極端な例ではなく、まさにそのような事が「日常的に起こっていた」という事そのものが、植民地支配の暴力とは何だったのかを表している事であり、押さえておくべき重要な点だと思います。

④ 関東大震災と朝鮮人大虐殺について

1923年9月1日 関東地方をマグニチュード7.9とされる巨大地震が襲いました。火事も発生し10万人以上の人が亡くなったとされる非常に大きな災害でした。壊滅した市街地を逃げ惑う人々に余震の続発が不安と恐怖を増幅させ様々なデマが乱れ飛びましたが、その中に「朝鮮人が放火している」、「井戸に毒物を投げ込んでいる」という流言飛語がとびかい、それを信じた日本人の「自警団」に多くの朝鮮人が捕らえられ、虐殺されました。その数は、6000人以上にものぼるといわれています。

ジェノサイドの研究者である東京大学の石田勇治さんは、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件を「日本が関わったジェノサイドの3つの事例」のひとつにあげています、(あとのふたつは日本による1937年の「南京虐殺」と1942年の「シンガポール華人虐殺」)。関東大震災時の朝鮮人大虐殺は、決して何百年も前の出来事ではなく、約100年ほど前に、この日本という国に実際に起こった虐殺事件だという事を改めて考える必要があると思います。


ここまでで充分長いですね!
ですが、やはり年表上の出来事を伝えたところで、その歴史の中にあなたと同じ血のかよった生きている「人」がいた、という事が伝わらないだろうと思い、上記の事を取り上げました。これらはその時代を生きた人々の「共通の記憶」の数多くある出来事のうちの1つです。その背後には、無数の語りがあるといえます。


まとめに
-在日朝鮮人とは?、植民地支配の暴力とは?-


再び在日朝鮮人とはどのような存在か?という問いの答え
整理すると、それは、
(1) 過去に日本が植民地支配した人々だということ、
(2) その人々はかつて「日本国民」だったということ

今まで書いてきたことと、上記2点から、
在日朝鮮人とは、36年間にわたる日本の植民地支配の結果として日本に住むことになった朝鮮民族とその子孫である、と定義できるといえます。


日本の植民地支配を省みるとき、当時は、欧米列強といわれる国々が先を争ってアフリカやアジアの国々を植民地にし搾取・支配していた「時代」だから日本も仕方なかったとか、そのような「時代精神」で片付けては決して駄目です。
その人間の尊厳を奪い、ことごとく破壊する「国家による構造的暴力」である植民地支配そのものを、人間の目で問い、あなたも私も一緒に克服していかなければならないと思います。

そして植民地支配のみならず、「国家による人間への暴力」は、確かに朝鮮半島や他の様々な国の歴史の中にありますが、それは日本の植民地支配を断ずるのと同じように問われなければなりません。
しかし言いたい事は、まずは、自分の住んでいる国の歴史の植民地支配の暴力について、重みや痛みを伴い自分の感情を揺さぶられるように歴史を知り、向き合いましょうよという事です。そのプロセスなしには、他国の国家暴力について「真の意味」で普遍的に批判する事が出来ないと思うんです。本当の意味で、植民地支配の暴力と今もある国家暴力を普遍的に克服していくためにも。
国家の目線ではなくひとりの人間としての目線で、まずは自国の歴史と向き合うべきだとわたしはそう思います。

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  ↓
ここまでは基本ベースについてお伝えしました。
以下からは具体的に、あなたの書いた記事に対して書いたものです。
  ↓

続いて:あなたが論点とした間違い箇所への、正しい回答


(下記①②の点について、基本事実をここでは「秤にかけてはならない」より大部分抜粋させて頂くような形の説明になりますが、お伝えします)

論点① 自由意思か強制か、と渡航制限について
朝鮮人が日本に来て住むようになるのは1910年韓国併合以降である。
1910年までは日本にいる朝鮮人は留学生や外交使節などごくわずかで、1909年時点では790人。それが、1945年の日本敗戦時には推定210~230万人あまりまで増える事となった。

日本はあるときはその制限を緩め、あるときには制限を強化しましたが、そのとき、朝鮮から日本に来るということは、朝鮮人は基本的には「同じ日本国の中を移動していた」という事です。植民地政策のもと、朝鮮半島で食うに食えず、生きる為に同じ「日本国」であった日本にやってきた事で、例えば九州から働き口を求めて大阪にやってくるという事と基本的には変わらなかったという事です。
ですから植民地支配の後半、日本の戦争拡大による人員不足を補う為に急増した在日朝鮮人より「以前」の、日本に渡ってきた人々も、事実上そうせざるを得ない状況(前述の土地や米を奪われた状況下)に置かれていたという事は、何度もいいますが絶対に抑えておかなければいけない事実です。

渡航制限について
あなたが書いたように確かに渡航制限はありましたが下記のような背景も押さえておくべきで、決して日本がずっと渡航制限をしていたわけではありません。
→結論を先に述べると、植民地支配の継続や戦争遂行の為に、その時々の状況に応じて混乱を抑制するため、日本は渡航を時に制限したといえるということです。

1919年は、朝鮮半島で3.1独立運動が起こり、日本では朝鮮人留学生たちによる運動が盛り上がり、朝鮮内外の運動の結びつきを恐れた朝鮮総督府は移動を統制しようとした。
1925年 世界恐慌による経済不況や社会不安のもと、日本人労働者との競合によるトラブルを防ぐためがその背景の一因にある。
1934年
「朝鮮人移住総合対策の件」で閣議決定は、新たに植民地にした満州に行き場のない貧民たちを送り込むことで朝鮮本土の没落農民を一層し、新植民地の殖産、国防に利用する計画でした。「中国朝鮮族」と呼ばれる人々は、この閣議決定により「国策」として満州に送り込まれた人々とその子孫です。
そしてこの政策と共に、あなたが書いたように日本への朝鮮人の渡航制限も強化されましたが、皮肉なことに国内の労働力不足が深刻になり、「閣議決定」の三年後には、「渡航制限」から「労働力移入」へと、180度の政策転換がなされました。(こういった事をあなたは何も触れず渡航制限についてのみ述べてました。それは歴史を歪曲して伝えてしまったという事です)

また1939年から1945年にいたる時期は、日中戦争の泥沼化、太平洋戦争突入により、その労働力不足を補う目的で、朝鮮人は日本へ広義の意味で「強制連行」され、炭鉱、金属鉱山、軍需工場、飛行場、港湾建設工事などに送り込まれタコ部屋に監禁され、非常に過酷な長時間労働を強いられました。この時期、さまざまな形態で日本に強制連行(後述②)されてきた朝鮮人の数は、その分け方でいうといくつかの数字があるが、1939年から1945年にいたるまでその総数は控えめにみても推計約72万4000人にものぼると言われていますが、その全体数はわかっていません。

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論点② 解放後の「帰国」について
・帰国を阻む状況(コレラの流行、財産持ち出し制限など)
終戦を迎え、その日を境に在日朝鮮人は「解放」され、日本を占領していた連合国総司令部(GHQ)は朝鮮人の帰国を計画的に進めようとしました。
しかし各地の港は、アジア各地からの復員兵や引揚者によって持ち込まれたコレラが大流行し、帰国を希望し港に溢れかえった朝鮮人たちも不衛生な野宿生活の中でコレラが流行した為、帰国事業は混乱を重ねました。
(後述③コレラについて)

また帰国に関する規定では、所持金1,000円以内、所持品25ポンド(約11kg)までに限定され、再入国を禁止されたために、祖国での生活基盤を失っている在日朝鮮人にとっては非常に厳しい状況がありました。
  ↓↓

▼リアルに想像して読んでください。
この現代に生きる私たちも今、コロナという感染症により、移動など様々な制限のもと生活していますよね。当時だって同じです。予期せぬ出来事などですぐに帰国の目途が立たなかったり、少し時期を見送ったりもしたのです。

日本に10年20年と生きて、生活基盤ができていた在日朝鮮人たちについて。
  ↓↓

(帰っても)故郷にはもう田畑の一枚もない、こういう状態ですね。そこで「帰れ」というのどういうことを意味するか。それは人を難民にする、使い捨てにするということです。
(中略)家族は一部は帰りますが、帰った家族がそこで生活の基盤を作れるまで一部は日本に残って仕送りをしたりですね、そういう形で段階的に帰ろうとする。それが人間の当然の生きる知恵です。(中略)

その日本国籍を保持しているはずの朝鮮人が(後の1952年に日本国籍は剥奪される)、朝鮮半島に帰ります。行ってみると思いのほかに故郷が荒廃していた。生活が困難だった。あるいは政情が不安定で戦争が始まりそうだった(1950年~朝鮮戦争勃発)。それで、もう一度日本に戻ろう、なぜなら日本には親戚家族がいますから。

「秤にかけてはならない」より


上記のような事が、実際歴史の中に生きていた人々の「帰国」にまつわる現実的な姿です。

だから、終戦後たしかに、「自分の意思」で日本に残りましたが、飢えに苦しみ日本に渡らざるをえなかった植民地支配政策と、帰国にまつわるこのような困難な事情を何も踏まえずに、ただ単に「自由意思で日本に残った」とか、「植民地支配と在日コリアンの存在は何も関係がない、普通の移民と同じだ」とか述べる事は、歴史の事実を否定するものでその内容は非常に暴力的で間違っている、という事を私は言いたいです。


その後日本で生きていく事になった在日朝鮮人たち ―戦後の国籍差別-

 植民地時代は、朝鮮人は日本人と同じ国籍をもつ「大日本帝国臣民」だったが敗戦後日本は、朝鮮人や台湾出身者など「旧植民地出身者」から日本国籍を一方的に剥奪。それによって、差別の形が「民族差別」から「国籍差別」というものに表面上は変化していく。勿論根底にある「民族差別」がその国籍差別を温存してきた事は言うまでもない。 

戦後の制度上の差別は、国民健康保険や年金への加入除外、指紋押捺、入居差別、就職差別、結婚差別、など枚挙に暇がないが、ここでは差別の中で生きてきたある在日朝鮮人1世のハルモニによる、「指紋のこと」と題され書かれた詩がとても、心を打つので、ご紹介したい。

指紋のこと
 私は日本人やいわれ
 朝鮮人をやめやいわれ
 船のってきました
 子どもそだてるとき
 き物きました。
 家かりるため
 き物きました。
 ちょごりをたんすに
 直しました。
 今、ちょごりきます
 かい人とうろくに指もんおします
 子どもにもおさせます
 それても
 孫にはおさせたくない 
                          文今分さんの詩

 「ちょごり」は朝鮮の民族服、「かい人とうろく」は外人登録。
 文今分さんは9歳の時に日本に来た。 
       宗秋月『猪飼野タリョン』より


長くなっていますが、後半あともう少し読んで下さい。
  ↓ ↓


●日本に残留した60万人のうちの一人
―私の父の話、そして在日コリアンの私が今ここにいるということ―

私の父は、1931年全羅南道という所で生まれ、2歳か3歳のとき家族とともに海を渡って山口県下関の港に降り立ち、そこから在日朝鮮人としての父の人生がはじまりました。(前述した日本の政策のせいで故郷の農村では家族が食べていけなくなり、渡ってきたのはいうまでもありません。)

父は、大阪市大正区という所で、尋常高等小学校に通い、皇民化教育をうけ他の日本人の子と同じように兵隊さんに憧れる気持ちをもち、広島への学童疎開も経験しました。またB29の焼夷弾から逃げ惑う経験もしています。(落ちた焼夷弾の破片が父の腕にとんで肉が抉れて出来た傷は生涯残りました)。父の身体化された言語は、「日本語」でした。その子ども時代の経験は表面的にはどれをとっても当時の日本の子と同じでしたが、ただ一点根本的に違うのは、父も父の家族も「朝鮮人」であったことです。そしてそれはその自我の根幹において、ことごとく日本人からは「否定」されるものであったという事です。
昭和天皇の敗戦を告げる玉音放送をきいて他の日本人の子どもと同じように涙も流した、という父の話は、大人になり色々な事を知る中で、私をとても苦しく複雑な思いにさせました。
朝鮮人として強烈に差別されると同時に、そのように日本人化された内面をもちあわせる事になった非常に複雑に捻じれ歪んだ人格形成のされ方。それはその後在日朝鮮人として日本で生きていく事になった父にとって、まさにアイデンティティの上で「懊悩」といえるものを、生涯抱えこむ事になったのでした。

終戦後、父の家族は全員、故郷に帰国しましたが長男である父は、ひとり日本に住んでいくと決め残留したようです。(ちなみに父の母、つまり私の祖母は、「地震が怖いから韓国に帰る」と言って家族みんな帰国した、と父から聞いてきましたが、この祖母の発言は子どもの時は単に日本に多い地震被害が怖いからだとずっと思っていましたが、私は大人になりようやく、きっと関東大震災時の朝鮮人虐殺の事を恐れ私の祖母は言っていたのだと、初めてその発言の真意を知ることになりました。)

1945年解放後、父の母(私の祖父は父が渡日3.4年後に病気で死亡)と兄弟たち全員が帰国した時(1946年か1947年)、当時尋常高等小学校を出て、既に建設現場などで働いていた父は15歳か16歳。日本語で毎日を生きていた父は、朝鮮半島に帰るよりも日本で生きていきたいと思ったといいます。どんなに差別されようとも、既にその中で生きている「日本」への愛着は強かったでしょうし、朝鮮への差別意識を自らが内面化してしまっている為に「帰りたくない」という気持ちもあったのかもしれません。ただ1ついえるのは、わずか15.6歳くらいの年頃で家族と離れてまでもひとりで日本に残る道を選んだという事で、2.3歳の幼き頃日本にきた父にとっては、複雑な思いは沢山ありながらも同時に、日本がやはり父にとって「故郷」のようなものにもなっていたのではないでしょうか。人間とはそのようなものではないでしょうか。
人が住み慣れた土地を離れ、別の国で生きていくというのは、頭の中で考えるほど単純で容易な事ではありません。それは、生きるために故郷を離れ、海を渡って日本にきた1世達は勿論そうですし、既に日本に生活基盤を築いていた在日朝鮮人たちが帰国するときもそうです。

私は、父とは非常に歳の離れた親子で、3世世代の私が1931年生まれの在日朝鮮人の語りを直接聞きその人生を見てこれたというのは少し珍しいともいえる立場だったと思いますし、当時の在日朝鮮人の方々の思いや歩みは、恐らく個々に違う物語があると思いますが、私の父はそのような背景のもと1933年頃から1998年に至るまでこの日本という地で、自分の人生を生きてきました。
そして、そんな父はまさに、歴史上、戦後日本に残った在日朝鮮人の約60万人のうちの一人であったという事です。
だから私の祖先は、2世代以前までずっとずっと朝鮮半島で生きてきた人たちで、日本の植民地支配という時代の中で、私の父の代からこの日本が生きる地となったという事。
それが、在日コリアンである私が今、あなたも生きるこの日本という国に存在し生きていることの背景で、それが「歴史」というものなんです。


〇その他、記事に書かれた細かいところについて思うこと

例えば、ブラジルやハワイには多くの日系人がおられます。では、日本はブラジルやハワイの植民地だったのでしょうか。違いますよね。
一方で、インドやミャンマーやマレーシアは英国の植民地でした。では現在の英国に、在英インド人や在英マレーシア人が大勢いるでしょうか。ゼロではないでしょうがそんなに多くはいませんよね。
つまり、結論から言うと、「日本による植民地支配」と在日コリアンの存在は、何の関係もない、ということです。

・諸外国の植民地支配との、「違いと共通性」

記事の冒頭のほうで、諸外国の植民地支配の事を例として簡単に出していましたが、やはり各々単純には比較できない異なる背景があります。例えば日本と朝鮮半島の「地政学的な近さ」や「日本皇国臣民」にしたという事や、背景にある日本のアジア侵略など、日本の個別的な植民地支配の歴史をきちんと踏まえないで、簡単に諸外国の例と比較して結論づけるのは、どう考えても無理があります。
また日系ブラジル人の方々の事については、私も勉強不足ですがその歴史的背景は植民地支配とは異なるものの、ブラジルという異国での厳しい生活や差別、また子どもの民族教育やアイデンティティの問題などは、「故郷を離れ離散した人々」が抱える共通のテーマ・問題として、在日朝鮮人の生きてきた歩みと重なる部分が多くあると思います。
 ↓
ご参考:「日系人が最多のブラジルで日本語教育はどう息づいてきたのか」
https://www.wochikochi.jp/foreign/2017/01/brazil-japanese-education.php


▼在日コリアンと「移民」について

在日コリアンは、あなたがいう「普通の移民」ではなく、日本の植民地支配に起因するという事は日本の歴史認識上、欠かすことのできない重要な事実です。
又それと同時に、移民について述べると、今この日本社会には既に多様なバックグランドの移民の人々が多く住んでいますが、移民の人々が抱える問題を解決していく事は、まさに今逼迫して急務に求められている大きな問題でもあります。

日本の在日外国人人口は、(非正規滞在者も含めると)約373万人にものぼると言われています。また日本にやってくる外国からの人は、仕事を求めて渡日する人だけでなく、世界中にある戦争や武力紛争、政治弾圧、人種差別など様々な事情により母国を離れなければならなくなった人々(難民)も多くいます。

どこの国の人であっても、又正規滞在か否かを問わず、人権は何より優先されるべきものでなければなりません。
がしかし、かつて在日朝鮮人に対して差別し、「管理」の対象としてしか見る事の出来なかった日本のその視線は、非常に残念ながら現在の入管制度そのものの根底と社会の意識に根強く残っており、今新たに渡日している外国人たちにそのまま引き継がれたように思います。(あなたの記事の移民についての箇所を読むと、「日本にきて働かせてやっている」という上から目線を感じ読みとったのは、私だけでしょうか?)
そして入管施設には過去からまさに今にいたるまで、さまざまな重大な人権侵害の実態があります。
(是非、下記をお読みください。)


在日外国人を労働力としてだけの管理の対象としてだけ見るのではなく、ともに地域社会を担う構成員の「生活者」としてまなざし、一緒に共生していくという事。それが今、私たちひとりひとりに人間として問われていくことなのではないでしょうか。


▼改めてnoteの記事を書いたあなた自身へ

ネット上で自分の感じた事を書くのは自由ですが、「歴史」について事実として書く行為には責任が伴います。
あなたが正しく知る機会がなかったのはあなただけのせいではなく、この日本という国が過去の歴史と向き合い切れていないという事に起因します。だからその事についてあなた個人だけを非難するつもりはありません。
しかし、ネット上で発信するという事は、能動的なあなたの行為なので、間違った事実をあたかも「歴史事実」としてそのように伝える事は決してあってはならない事です。

あなたはその発言に際し、ネット上での情報収集だけでなくきちんと、歴史を書いた本を数冊くらいは読んで書きましたか?(もしそうなら、あのような内容にはならなかったと思います。)

私は、この文章もそうですが、ネット上で発信するのがすごく怖いなと思っています。ネットで応酬などもまっぴらごめんです。(そしてこの文章は応酬ではありません)
自分が知ってきた事でも人に伝えるのは全然違うし又器用でもないので、この文章を書くために改めて図書館に行き昔読んだ本を色々読みなおしたり、構成を考え言葉を選んだり、おそらくあなたよりずっとそれなりに時間をかけてそれなりに摩耗しながら私はこの文章を書いています。

でも、ネット上で「歴史事実」について発信するなら、それくらいはやっぱりする必要があるんじゃないでしょうか?
あまり丁寧にばかり語っていても、伝わらないので人間的な感情として一言だけ。
「そんな薄っぺらい内容と知識で、とんでもなく間違った事を『歴史事実』として、ネット上でぺろっと言ってくれるな!」これが、私の心の声です。
だから、あなたも発信した者の事後責任として、きちんと歴史について書かれた本を最低1冊くらいは読んで下さいね。
そして二度と間違った事実の歴史を、人に伝えるのは辞めていただきたい。

  ↓↓
それは何故か?

① ひとつは、このような間違った事を歴史事実として伝えることは、歴史を生きてきた在日朝鮮人と、そして朝鮮人の戦争被害者である方々への冒涜に他ならないからです。特に、戦争被害者の方々の事を思うと、日本の植民地支配を省みない発言は、非常に腹立たしいという言葉では済まされない事です。そして又、日本の加害行為を認めない事は、過去の戦争により亡くなった日本人の方々への冒涜にもつながると思います。


② そしてふたつめは、あなたが軽々しく発したその間違った歴史事実が、今あるヘイトスピーチの「元」となったり、またその温存や助長の要因となりまわりまわって結果、誰かを非常に鋭い刃で突き刺し傷つけるような「暴力性」につながる可能性が充分にあるからです。
どうかその自覚をもって下さい。
私もあなたも誰もが、知らない事で間違った認識をもつ事はあります。ですが大切な事は、間違いとして知った時に、間違いを認められる事が大切だと思います。

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あなたと、あるいは誰かへ
― 歴史をみる大切な視点 ―

歴史をみる時、よく日本が、韓国が、中国がなど、「国」(やその政治リーダー)を主語にして語られる事がどうも多いように思われますが、その発話しているあなたの自分の主語は、「日本」という国と一体化したものになっていないでしょうか? 
国の政策を知り議論していく事はもちろん重要ですが、まず歴史と向き合う時、「ひとりの人間として、歴史の中にいた虐げられた人、抑圧され傷つけられた人の目線に想像力をもって立とうとする事」が、一番大切な事だと私は思っています。なに人である自分はどう考えるかとかは、その後にくる事だと私は思います。そうでないといつのまにか自分の目線が国家主義的な暴力性を帯び、知らない内に、虐げられた人たちを置き去りにし、そして更に深く傷つけることになってしまうのではないでしょうか。

正しい歴史事実の認識と共にまずは、ひとりの人間として同じく歴史の中に生きていた「人」を見つめる事。そこからはじめて、同じ悲劇を二度と繰り返してはならない、という地点に近づけるのではないでしょうか。



さいごに
私は、在日コリアンとして初めて歴史を知っていく事になった20年ほど前、自分自身が激しく揺さぶられる感覚がありとても苦しかった。そして最近、改めてまた湧き上がる悔しさや怒りでもう一度涙を流してしまう事がよくある。
なぜなら戦後から今に至るまで、「植民地支配の暴力」が、この日本にやはりいたる所に残っているから。
それは、戦後残った在日朝鮮人のひとりの人間の心を蝕むような差別構造がもつ破壊性の残影だったり、現在の人権を無視した入管制度だったり、朝鮮学校への制度的差別だったり、戦争被害者の歴史を冒涜するような発言だったり、私たち在日コリアンを平気で傷つけるヘイトスピーチだったり、これら様々なところに連綿と続くそれらを日々、度々垣間見るからだ。そしてひとりの当事者でありながら何もできないままいる自分の事も悔しく思ったりする。でもとりあえず、自分が発せられることくらいは発していきたい。
                              (2021.8.12)                



▼後述①
「在日朝鮮人ってどんなひと?」徐京植のP66-『どうして在日朝鮮人は日本にいるんですか?』の章では、さらに【1905年に至るまでの流れ】を明治維新のころまで遡って列強の動きとともに分かりやすく仔細に説明されているので是非、こちらも読んでほしいです。

▼後述②
「強制連行」については、とてもここでは扱いきれず又上記内容も不十分さが多いです。沢山書かれた本があると思いますが、ここでは参考文献の「日韓 新たなはじまりのための20章」の中の、外村大さんが書かれた「朝鮮人強制連行はなかったのか(P55-)」をご紹介しておきます。「嫌韓派」の人々がよく言う、戦時下も日本での就労を積極的に願う朝鮮人がいたことを背景に強制的な動員はなかったという主張がありますが、史実に基づいた見解をここで書かれていると思います。ネット上で強制連行について取り上げる(た)なら、まずは本を読みましょう。

▼後述③
患者数が年間1万人を切ってコレラの脅威が収まるのは1920年代でしたが、その後第二次世界大戦直後にアジア各地からの復員兵や引揚者によって持ち込まれたコレラが大流行し多数の死者が出ました。
またコレラ患者が出ると検疫のために40日間船は沖合に留め置かれるなどしました。

▼もしこれから初めて歴史について知り学ぼうとする方がいるなら、
下記の中で、まず1冊だけおすすめをあげるなら、
ひとつめの「在日朝鮮人ってどんなひと?」(徐京植さん著)です。
わかりやすく語られるように書かれていますが、その内容は非常に濃厚で色々な事が凝縮されているそんな本だと言えます。

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2つめのおすすめは、「在日コリアンの歴史を歩く-未来世代のためのガイドブック-」です。この本では「小さな物語」としての歴史を〈地域史〉〈個人史〉〈家族史〉という三つの視点で紹介されています。

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3つめのおすすめは、「日韓 あらたな始まりのための20章」。日本と朝鮮との絡まりあった関係を考えるうえで欠かせない多岐にわたるテーマが書かれています。

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〇主な参考文献
徐京植 「在日朝鮮人ってどんなひと?」平凡社 2012
徐京植 「秤にかけてはならない-日朝問題を考える座標軸-」影書房 2003
在日コリアン青年連合(KEY)編著「在日コリアンの歴史を歩く-未来世代のためのガイドブック-」 彩流社 2017
田中宏/板垣竜太 編 「日韓 あらたな始まりのための20章」岩波書店 2007
康潤伊・鈴木宏子・丹野清人 編著
「わたしもじだいのいちぶです-川崎桜本・ハルモニたちがつづった生活史」日本評論社 2019
「学芸総合誌 環-特集 歴史の中の「在日」」藤原書店 2002
金賛汀 「在日コリアン百年史」三五館  1997
ほるもん文化編集委員会「ほるもん文化8 在日朝鮮人『ふるさと』考」
新幹社 1998

また今回の参考文献ではありませんが、歴史認識と自分との関係を考える上で大切な視点が書かれている下記の本も私はおすすめです。ただアマゾンではとんでもない値段になっており又他に取り扱いがあまりなさそうで、図書館か古本屋でしか見つけられないかもしれませんが一応お伝えしておきます。
〇田口裕史「戦後世代の戦争責任」樹花舎 1996


今回新しい本は、時間の関係上わたしは読めませんでしたが、色々と探してみると私の知らないたくさんの良さそうな本も今回見つけました。また落ち着いて少しずつ私も勉強していきたいです。