ポストコロナ時代の「治る」の定義とは——身体というピュシス(自然)の声を聴く
生物学者の福岡伸一氏、美学者の伊藤亜紗氏、歴史学者の藤原辰史氏の共著による新書『ポストコロナの生命哲学』(集英社新書, 2021年)から引用。前半は「コロナが投げかけた問い」というテーマで3人の論考がおさめられており、後半は「ポストコロナの生命哲学」というテーマで3人の鼎談となっている。
本書のキーワードはピュシス(自然)とロゴス(論理)である。福岡氏は、まず人間が人間らしくあるためにはロゴスは不可欠なものであると説く。ロゴスとは、言語、構造、アルゴリズムである。ロゴスの力で自然を客観化し、外化し、相対化した。そしてロゴスのおかげで、人間は「産めよ増やせよ」という遺伝子の掟からも逃れることができた。種の保存よりも、個の価値に重きをおけるようになったのもロゴス(言葉)のおかげである。
しかしながら、今起きている危機の本質は、生命を情報と見過ぎたこと、ロゴス化し過ぎたことなのではないか、と福岡氏は指摘する。私たちの身体はピュシス(自然)なのであり、その特徴は制御できないこと、予測不可能なことである。今、私たちに必要なのはポストコロナの生命哲学であり、制御不能な自然物(ピュシス)としての身体を見つめ直すことであり、自然(ピュシス)の歌を聴くことである、と。
ただし、福岡氏は単に制御不能なピュシスとしてのみ身体を捉え、あるがままにするべきであると言っているわけではない。ポストコロナ時代の教訓として重要なことを二つあげている。1つ目は「ピュシスを正しく畏れよ」ということ。「正しく畏れる」というのは、単に怖がるのではなく、自然としてのピュシスの前にひざまずきつつも、もう一つのピュシス、自分自身の生命を信頼すべきだということ。2つ目は「自由を手放してはいけない」ということである。人間にとって大事なのは、ホモサピエンスという種の存続よりも一つひとつの個体の生命であり、これはロゴスを有する人間の人間たる所以でもあるからだ。
ピュシスとしての身体性を信じ、ままならない身体を受け入れることについて、鼎談パートでは3人の学者がそれぞれの研究分野からの興味深い視点を提示していた。生物学者の福岡氏は、ウィルスとの共生とは、ウィルスの感染性と宿主の身体性のせめぎ合い、つまり両者のあいだに動的平衡が成立するということであり、過剰なロゴス化を避けつつ、長い時間でこれを見守っていく必要があると論じる。美学者の伊藤氏は、吃音者の研究の知見から、そもそも「何かしゃべるという行為はほとんどの人にとって思い通りにいかない」、つまり「ままならなさ」があるというところから、ピュシス(身体)をロゴス(言語)化することの本質的な不可能さを論じる。歴史学者の藤原氏はナチスドイツが優生主義の観点から「汚れた血」というノイズを排除しようという過剰な潔癖主義に陥った事実を述べ、私たちの生活には「ノイズ」やままならないことが常に含まれているはずで、それこそが人間らしさではないかと論じていた。
ポストコロナの新しい生命観・生命哲学の輪郭が見え始めてきたところで、3人の議論は「治る」とはどういうことかというテーマに行き着く。伊藤氏は、幻聴者の研究から、そもそも彼らにとって「治る」とは幻聴がなくなることではないはずだという視点から、治るとは「境界(輪郭)の再構築」ではないかと言う。藤原氏は、病院という場所や病気の定義が社会と個人の相互作用の中で生まれる動的なものであり、ポストコロナ時代の病気あるいは治癒の定義も変わっていくべきだと論じる。福岡氏は、自身の「動的平衡」の理論から、治るとは新たな動的平衡状態の獲得であり、それは「死」という現象についても同様だと主張する。個体の死とは、環境に対して個体が使っていた時間や空間や資源を手渡すということであり、そこで新たな動的平衡が獲得されるものだからである。3人に共通していることは「治る」というのは、元に戻るということではなく、新たな別の状態に落ち着くということだと考えられる。
生物学者、美学者、歴史学者という一見、まったく関連のなさそうな異分野の3人が、生命哲学や病気、治癒といった事がらに関して、さまざまな観点から議論を交わし、対話が成り立ち、ポストコロナ時代の指針ともいうべきアイデアに行き着いていることが非常に面白い。そこで深く洞察されているのは生命(いのち)に対するまなざしである。つまり、私たちが生物学的・美学的・歴史学的にいかなる存在であろうと、「いのちを有している」という事実では同じ立脚点に立っているということだ。ポストコロナ時代の新しい生命観は、このように他分野・異分野の人々が協力して構築していけるものだという希望を持った。
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