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不安とは無に至る本来的で適切な通路である——レヴィナス『倫理と無限』より

情動性、情態性〔Befindlichkeit〕に関する、たとえば、不安に関する箇所では、通俗的な研究においては、不安は原因のない情動の動きとして、より正確にいえば「対象を欠いたもの」として描かれています。ところが、ハイデガーの分析では、まさに対象を欠いたまま存在するという事実こそ真に意味があるとされているのです。不安とは無に至る本来的で適切な通路なのです。無は哲学者たちにとって派生的な概念、否定作用の所産と思われていたり、またおそらく、ベルクソンの言うように、幻影と思われていたのかもしれません。ハイデガーからすれば、無とは一連の観照的な手続きによってではなく、不安のなかで、真っ直ぐな、引き返すことのできない通路によって「到達される」ものなのです。実存それ自体はいわば志向性の結果として、ある意味によって、つまり無の原初的な存在論的意味によって生気を与えられます。無の意味は人間の運命について、あるいは、その由来について、その最期について知ることができるということから派生するわけではありません。実存は、実存するというその出来事そのものによって、不安のなかで無を意味するのです。あたかも実存するという動詞が直接補語をもつかのように。

エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限:フィリップ・ネモとの対話』ちくま学芸文庫, 2010. p.43-44.

本書『倫理と無限——フィリップ・ネモとの対話』は、1981年にラジオ局「フランス・キュルチュール」で放送されたエマニュエル・レヴィナスとフィリップ・ネモとの対談である。同書についての過去記事(「客観性は世界を見つめる眼差しを覆い隠し忘却させる」)も参照のこと。

レヴィナスがハイデガーについて語った箇所である。レヴィナスはフライブルク大学においてハイデガーの講義を聴講して衝撃を受ける。1928年のことである。ハイデガーの思想は、レヴィナスに決定的な影響をもたらした。レヴィナスは『存在と時間』が「哲学史におけるもっとも優れた本のひとつ」だという。それは、ハイデガーに学んで50年以上が経過した1981年の時点で語られていることである。

フッサールが哲学に対して「現象学」という超越論的なプログラムを提出したのに対して、ハイデガーは哲学を、他の認識方法と比べて「基礎的存在論」として明確に定義したということにレヴィナスは注意を向ける。ハイデガーが示した「基礎的存在論」は、不安〔Angst〕、気遣い〔Sorge〕、〈死へ臨む存在(Sein zum Tode)〉などの記述に見事に表現されている。ハイデガーの目的は、人間の「本質」ではなく、人間の存在や実存を記述することであった。ハイデガー自身は自分の著作に「実存主義」的な意味が付与されることを好まなかったが、『存在と時間』でなされた実存の分析があまりに見事であったために、後の「実存主義的」といわれるようになる分析の基礎をハイデガーは決定づけたといえる。

志向性によって、実存することに生気が与えられる。「志向性」とはフッサール現象学の鍵概念であり、私たちの心の動きがそれ自体では成立しえず、何らかの対象へと向かうものであることを意味する。ハイデガーは志向性を、不安、気遣い、〈死へ臨む存在〉として存在することの根本的なあり方として記述した。特に「不安」は、現存在(私という実存)の世界内に存在することそのものに対する根本的な気分づけ(情態性)を指す。不安は、日常のなかで隠蔽されている現存在の本来性を開示する契機となる。こうした現存在に特有の存在のあり方そのものが「気遣い」と呼ばれる。不安がもっとも痛切な仕方で現存在にもたらされるのは、もはや存在が不可能となる死への先行的な関わり方によってであり、こうした存在機制は〈死に臨む存在〉と名づけられる。

不安とは、現存在に根本的に付随する気分(情態性)である。ハイデガーは、気分や感情、情動などを主観性の二次的な現象とはせず、むしろ、世界内に存在する現存在に根源的にかかわる存在論的構造であるとした。通俗的な研究においては、「不安」とは対象を欠いた情動として示される。それに対して、明確に対象があるものは「恐怖」と呼ばれる。しかしハイデガーは不安を、対象を欠いた二次的な情動としては記述しない。ハイデガーの場合は、「まさに対象を欠いたまま存在するという事実にこそ、真に意味がある」と捉えたことにレヴィナスは注意を喚起する。不安とは、無あるいは死の根源的な意味に至るための適切な通路なのである。ハイデガーによれば、無とは一連の観照的(思惟的)なはたらきによってではなく、不安のなかで、まっすぐな、引き返すことのできない通路によって「到達される」ものであるという。実存それ自体は、いわば志向性の結果として無に到達するのであり、その結果、無の原初的な存在論的意味によって生気を与えられるのである。


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