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〈自由〉および〈自由の相互承認〉の実質化としての教育論——苫野一徳氏『どのような教育が「よい」教育か』を読む

以上、「よい」教師の条件として、信頼、忍耐、権威という三つの資質を挙げたが、しかしその上で私は、より広い視野から見れば、これら資質は、必ずしもすべての教師が備えているべきであるわけではないといいたいと思う。むしろ、すべての教師がこのような資質を備えた学校は、あえていうなら、不自然であるしまた不健全であるようにさえ私には思える。……
広い視野から見れば、学校には多様なタイプの先生がいていいし、むしろそうあるべきであるからだ。……
つまり〈自由〉および〈自由の相互承認〉の実質化のためにも、教師の多様性は不可欠なのである。社会的な相互承認とは、まさに多様で異質な人々の間でこそ求められるものであるからだ。
教師が多様であるからこそ、多様な子どもたちが自分にあった教師に出会える可能性も開かれる。子どもたちは、あの先生好きだとか、あの先生嫌いだとか、あの先生すごい、面白い、怖い、暗い、かっこいい、変人、だとか、そうやって色んなタイプの大人と出会って成長していくのだ。
ただし、まさに多様な教師がいるべきであるからこそ、私は「よい」教師の条件として、いや、むしろこの点についてはすべての教師に望みたい資質として、最後に深い「自己了解」を挙げたいと思う。それはつまり、自らの感受性と価値観を、深く了解することである。……
学校空間には多様な教師がいるべきではあるが、それぞれの教師は、絶えず、自身が独りよがりな感情や価値観をもって子どもたちと向き合ってはいないか、自らを振り返り続ける必要がある。

苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』講談社, 2011. p.198-200

教育哲学者の苫野一徳氏による教育論の書籍『どのような教育が「よい」教育か』からの引用。苫野一徳(とまの いっとく)氏は1980年生まれ、早稲田大学大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(教育学)。早稲田大学教育・総合科学学術院助手などを経て、現在熊本大学教育学部准教授。著書に『教育の力』(講談社現代新書)、『勉強するのは何のため?』(日本評論社)、『「自由」はいかに可能か——社会構想のための哲学』(NHKブックス)、『はじめての哲学的思考』(ちくまプリマー新書)などがある。

苫野氏はまず現代が「よい教育とは何か」という問いに対する答えを出せない時代になってしまったと説く。どのような教育論を唱えようと、それは結局、絶対的な教育論であり得ないという、一種のニヒリズムに陥ることになってしまった。しかし本書の目的はあえて、この「答え」を明示することにある。苫野氏は哲学(特にフッサールとヘーゲルの哲学)の考え方を使って、できるだけ広く深い共通了解を得られるような教育の考え方(原理)を提示することができるのではないかと考える。

教育の本質および「正当性」の原理を、どのようなものとして解明できるのか。そこで苫野氏はフッサールとヘーゲルの哲学に依拠する。20世紀アメリカを代表する教育哲学者ジョン・デューイの思想も、そのほんとうの意義は、フッサールとヘーゲルの洞察に支えられてこそ十全に発揮されるものと苫野氏は考える。彼の考えでは、現代哲学においてはフッサール現象学のみが、絶対(真理)主義と相対主義の対立を最も根本的に克服し得たものであるという。なぜなら、フッサール現象学は、相対化の論理をより深いところでいわばせき止め、私たちに「よい」教育を論じ合う方法を示してくれるからである。

フッサールは、私たちに与えられている明証(つまり確信)の「本質的構造を、あらゆる内的な構造に即して解明すること」といい、現象学の最も根本的な方法として提示した。哲学者・竹田青嗣氏の言葉でいえば、「確信成立の条件と構造の解明」ということになる。「よい教育とは何か」という議論が相対主義に陥ったとしても、「ああ確かにこれはいい教育だ」と思わす感じてしまうことがあったとすれば、その時、私はなぜ、そしてどのようにこれを「よい」教育と感じてしまったのか、その「確信」成立の条件と構造を問うことはできるはずだからである。

その上で、教育の「本質」を素描すると、苫野氏は教育の本質においては、ヘーゲルの〈自由〉論と〈相互承認〉論が不可欠になってくると説く。ヘーゲルは、その卓越した人間洞察を基軸に、「よい」社会とは何か、すなわち、私たちができるだけみな納得し、さらには満足して生きていくことができる社会とはどのような社会であるか、徹底的に考え抜いた哲学者である。ヘーゲルにとって人間はどうしてもできるだけ〈自由〉に生きたいと思ってしまう存在である。しかし「生きたいように生きたい」という〈自由〉、自らの〈自由〉を十全に獲得しうるためには、私たちは他者からの承認をどうしても必要とする。ヘーゲルは『精神現象学』において、これを承認のための「生死を賭する戦い」と呼び、人類の歴史を自らの自由を他者に承認させるための互いに争い合う歴史として描き出している。そこで、私の自由が他者から認められると同時に、私自身もまた他者の自由を認めるということ、つまり〈自由の相互承認〉の理念を共有することが必要となってくる。したがって私たちは、互いが互いに〈自由〉な存在であることをルール(法)としてまず認め合い、その上で互いの〈自由〉のあり方を調整し合っていくような社会を構想する必要がある。

その上で教育の「本質」とは何か。それは「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」ということである、と苫野氏はいう。各人が〈自由〉になるためには、社会が〈自由の相互承認〉の原理に基づいていることに加えて、私たち自らが〈自由〉たりうるだけの、〈教養=力能〉を必要とするからだ。〈自由の相互承認〉の理解は、各人の〈自由〉を実質化するものとしての〈教養=力能〉のいわば最も基本的な土台であり、これを育むことは、諸個人にとって社会にとっても、根本的に重要なことである。要するに教育は、「個」のためであると同時に「社会」のためのものなのだといえる。

その上で本書では、教育の本質論を、苫野氏自らの「確信」として提起し、そしてその確信成立の条件を、誰もがたどりうる理路として、すなわち確かめ可能な理路として提示するという試みをおこなっている。第一章では、なぜ教育学が教育構想力を失ってしまったかについて述べている。第二章では、どのような社会が「よい」「正義に適っている」かを探求している現代政治哲学の諸理論について批判的に考察し、それを現象学の考え方でいかに解消することができるかを提示している。第三章では、教育とは何か、どのような教育であれば「よい」といいうるかという根本的な問いに答えることを試みている。

冒頭の引用は第三章の「「よい」教師とは」という節からのものである。苫野氏は、子どもたちの「よい」成長とは、〈自由〉ができるだけ十全に実質化されていくことにあるという。したがって教師の仕事の本質は、まさにこの成長=〈自由〉をより充実させ実質化していくことにある。〈自由〉の実質化とは、具体的には①自己承認、②他者の承認、③他者からの承認の三つの承認が充実し成熟していくことを意味する。そしてこれらを助ける教師には、「信頼」「忍耐」「権威」の三つが必要となる。子どもたちへの無条件の信頼は、自己承認を助ける。この信頼を心理学者の山竹伸二氏は「親和的承認」と呼ぶ。無条件の親和的承認は、自己承認のための重要な条件である。

しかし教師はたいてい子どもたちに裏切られてしまう。それでもなお、教師は子どもたちを信頼し続けるべきである。このとき必要となるのが「忍耐」である。信頼と忍耐の重要性は、ペスタロッチやエマソンなどが言うように、時代を超えて教育における重要な秘訣であり、教師にとって最も重要な資質であると言われている。教師の三つ目の資質は「権威」である。これは強権的な権力や暴力とはまったく異なる概念である。いわば「限りない尊敬をもって見上げることのできるような人物」(シュタイナー)としての教師である。子どもは、自らを従わせたいと思える、権威ある大人を求める。憧れの対象たりうるような、自分を認めてもらいたい(他者からの承認)と思えるような、そうした権威ある教師を求める。では教師の権威はいかにして可能か。そこでも最大の条件は「信頼」にあると苫野氏はいう。

「よい」教師の条件として、信頼、忍耐、権威の三つの資質があるが、それらはすべての教師が備えている必要はない。むしろすべての教師がこのような資質を備えた学校は不自然であるし、不健全であるだろう。むしろ多様な資質をそなえた多様な教師がいる学校のほうが自然である。そして子どもたちはそうした色んなタイプの教師と出会い、その好き嫌いをも通して、成長していく。ここで苫野氏は「よい」教師の四つ目の条件として、深い「自己了解」を挙げる。そしてこの資質だけはすべての教師に望みたいという。自らの感受性と価値観を深く了解することである。学校空間には多様な教師がいるべきではあるが、それぞれの教師は、絶えず、自身が独りよがりな感情や価値観をもって子どもたちと向き合ってはいないか、自らを振り返り続ける必要がある。その自己了解だけが、教師自らを自己陶冶し、新たなステージへと押し上げる可能性の条件であると苫野氏はいう。

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