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「木々が葉を落とす、そこには別の力が現れている」——ミヒャエル・エンデ『ものがたりの余白』より

死へ向かうプロセスは、おそらくどれも精神化するプロセスじゃないでしょうか。純粋に生物学的な意味でもそう思うのですが、力を解き放ち、もっと精神的な現実のなかへ至らせるプロセス。それらの力が何か(外的なもの)を築いたり、外的なかたちを作るのに使われるときよりも、もっと精神的な現実へと解き放たれるプロセスなのです。
実を言えば、生とはすべて、息を吐き、吸うことの終わりのないくりかえしでしょう。外的な姿のなかへと出てゆき、そしてまた精神的なものへと、姿かたちから脱する。つまり、秋とはもっとも精神的な季節だと言えます。この季節には外的な姿かたちは消え失せ、自然の精神性が活発になるときです。ただ、それは見えない。それはもう外的には見ることができません。

ミヒャエル・エンデ『ものがたりの余白——エンデが最後に話したこと』田村外志夫訳, 岩波現代文庫, 2000. p.270.

ミヒャエル・アンドレアス・ヘルムート・エンデ(Michael Andreas Helmuth Ende、1929 - 1995)は、ドイツの児童文学作家。父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ。日本と関わりが深く、1989年に『はてしない物語』の翻訳者佐藤真理子と結婚している。また、日本の黒姫童話館にはエンデに関わる多くの資料が収集されている。エンデの『自由の牢獄』に関する過去記事も参照のこと。

本書『ものがたりの余白』は、エンデ晩年のインタビュー集である。少年時代の思い出、書くということ、夢について、あるいは死についてなどさまざまなテーマに関して自由に語る老齢のエンデの生の姿がそこにある。

文学の価値に関して、エンデはこう語る。「文学には現実があります」「芸術が嘘だから、わたしたちはそれを通して真実を見ることができる」と。エンデは、実は私たちは文学を通して悪とは何かということを体験できるからこそ、善が何かを知ることができるという。
一般的には現実が真実であり、文学・芸術は虚構(嘘)だと思われている。しかし、ときには芸術が真実であり、外の現実のほうが虚偽ということもありえる。エンデは「認識とはちがい、体験はいつも多義的なもの」であるという。体験では、最高の幸福感が同時に哀しみに結びついていることに気づくことがある。これは論理的に説明できないのだが、実際にはそうであると。

エンデは「死」についても語っている。エンデいわく「わたしたちは一生を通じて死に続けている」という。生まれた瞬間から、私たちはずっと死に続けているのだと。これは何も否定的な、悲しむべきことではない。これは人間のなかに存在する「死の力」なのである。
例えば、偉大な芸術家にも、生の力を源にして創作をする芸術家たちと、死の力を源にして晩年に創造的になる芸術家たちがいる。モーツァルトが前者だとすると、カフカは後者かもしれない(カフカは自分が結核という不治の病にかかった後に創作意欲が増した)。両者ともに創造的な力であるが、前者は身体性からくる力であり、後者は脱身体化(物的な身体性を失うこと)からくる力である。これらは乗り物が異なるようなものであり、別のクオリティの力をもたらす。どちらが優位ということではなく、ただクオリティが異なるというわけである。

エンデは「木々が葉を落とす。そこには別の力が現れている」という。外的にはそれは死にゆくプロセスである。しかし、内から見れば、木のなかからまったく異なる力が出てくるプロセスなのである。つまり、春から夏にかけて、木のなかで、宇宙に向かって輝き出る力は、秋にはちょうど逆になる。それは宇宙から木の根へ入り、大地のなかへと向かう。
同様に人間の一生も脱身体化(精神化)していくプロセスだということもできる。死へ向かうプロセスはおそらく、精神化するプロセスである。力を解き放ち、もっと精神的な現実のなかへ至らせるプロセスなのだ。

このことをエンデは「生とはすべて、息を吐き、吸うことの終わりのないくりかえし」であるという。外的な姿のなかへと出ていき、そしてまた精神的なものへと、姿かたちから脱するプロセス。私たちの身体が衰えていくとき、そのとき精神化させる力(死の力)は活発になっている。生命の営みはそのくりかえしなのであり、陰と陽の関係、どちらも相互に関連していて、どちらが優位でもなく、お互いがお互いに必要な状態なのである。陰は陽から生まれ、陽は陰から生まれる。同様に、生の力は死の力から生まれ、死の力は生の力から生まれるのである。

この陰と陽の関係、根源的な二元性を、エンデは外的なものと内的なもの、男性性と女性性(旧約聖書の文脈)、生と死などになぞらえて語っている。これらは二つにはっきりと分かれているわけではなく、この世界の二元性は、現れまた隠れることが永久に交錯する。「はじめにロゴスありき」と語られるヨハネ福音書の言葉は、こうした混沌の中から二元性が現れて、私たちが意識をもったということを意味する。外と内のちがいが、私たちの意識のはじまりであり、私たちは内と外が分かれていない意識というものをもはや考えられない。しかし、仏教では「涅槃(ニルバーナ)」という内と外が分かれていない状態があることを言っている。禅では「無」という概念でそれを捉えている。それは何も無いということではなく、語ることができない状態、すべての現象に先立つ原状態なのだとエンデはいう。「真実をめぐる私たちの努力とは、すべて、私たちが外的に感知するものを、私たちが内的に体験することと合致させる試みの連続なのでしょう」とエンデは語っている。

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