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空間的実在としての「悪」とはどのようなものか——ミヒャエル・エンデ『郊外の家』を読む

貴殿のお考えは違うかもしれません。同じように、この私の報告に重要性をほとんど見出されないかもしれない。私の真剣さや良心を、高等教育を受けた者として保証することはすでに述べましたが、ここで再度くり返します。子ども時代から、私にはある考えが脳裏から離れず、それはますます強くなる一方なのです——われわれのいわゆる現実とは、おそろしく巨大な建物のただの一階、ほとんど管理人住居のようなものにすぎず、この建物には無数の階が上に、そしておそらく下にあるのではないでしょうか。貴殿に報告せんとした、件の家の存在が、あたかもその家がなかったかのごとく今日証明できず、信じられないことのように思われる事実は、私見では、あまりにも現代の様相によく似合います。同じことは第三帝国時代の出来事の幾つかにおいても言えるのです。

ミヒャエル・エンデ『自由の牢獄』田村都志夫訳, 岩波書店, 2007. p.118.

作家ミヒャエル・エンデの短編集『自由の牢獄』より、「郊外の家」という作品から引用。ミヒャエル・エンデ(Michael Andreas Helmuth Ende、1929 - 1995)は、ドイツの小説家。南ドイツ・ガルミッシュ生まれ。1943年頃から創作活動を始め、俳優学校卒業後、本格的作家活動に入る。著書は各国で訳出され、幅広い年齢層に支持されている。主な作品に『モモ』『はてしない物語』『ジム・ボタンの機関車大旅行』『鏡のなかの鏡』など。

短編集『自由の牢獄』では、エンデの思索の主要な軌跡がいくつも、それぞれ短い話として表現されている。話は手記や手紙、奇譚、千夜一夜物語のパロディー、ショートストーリーなどさまざまな形式で語られる。エンデが一生涯持っていた思想要素には何があるのだろうか。翻訳者の田村都志夫氏は、それは「自然や動物、そしてほかの人間との連帯感、つながり、愛情、人間(心、内世界)と宇宙(外世界)との照応、時間への関心」、そして「不安な時代を背景とした新生への希求、遊び、空間への関心、言葉に対する愛情と信頼、精神世界に対する信頼と憧憬」を挙げている。

短編「郊外の家」では、「悪」とは何かというテーマが、ナチスに託されて、悪そのものの空間的実在の謎として問われている。神の精神宇宙のなかで、「悪」はいかに(空間的に)実在するのか。時は1942年の初夏、ある少年が郊外の不思議な家を兄とともに目撃する。その家には側面や裏面がないのである。というのも、側面も裏面も、正面と同じように玄関があり、ドアがあるのである。ただ、裏面では詳細のすべてが、鏡のように左右逆になっている。

その家の印象を報告者の少年(報告時点では大人になっている)は、「邸宅の中の、死に神のごとき青白い光が有する、身の毛もよだつような恐ろしさは、その存在自体にある」という。少年も兄も、その青白い光が、あるものの現存を示していると感じる。「それは「絶対悪」としか言いようがない、神やこの世といかなるつながりもないもの。存在してはならないもの、しかし、存在するものなのです」という。その家の謎とは「その建物には中身がない」ということだった。正面の玄関から中に入ると、内部がなく、すぐに向かいの裏の玄関から外に出てしまうのである。

その家にはある婦人が出入りしていた。その夫人は分厚い眼鏡をかけ、臭気につつまれている。その夫人にその分厚い眼鏡を通して巨大な目でじっと見つめられた少年の兄は、ほとんど気分が悪くなってしまうほどであった。1943年の暮れ、複数の男が黒塗りのベンツ車でやってくる。制服姿のナチス親衛隊員である。婦人と親衛隊員たちは、ある男を連行している。囚人のようなその男を連行し、彼らは邸宅の中に入っていく。そして、また婦人と親衛隊員たちは去っていくのであった。そして戦争が終わり、「千年王国」が崩壊すると、不思議なことにその邸宅は土地もろともに消失していたのである。

この話はナチズムに代表される巨大な悪というものを象徴しているようである。それは戦争時に確実に空間的に存在していたのである。しかし、その悪には中身がない。あるのは表面だけである。表面しかなく中身がない巨大な建物とは、表面ばかりを着飾って、それが本物であるかのように人びとを惑わせたナチスそのものようにも見える(ナチスはプロパガンダという粉飾が実にうまかった)。また、同時に「悪」というものは中身を持たない空虚なものであり、存在するかのように見せながら、何も生み出すことのない(逆にあらゆるものを無の空間に消滅させてしまう)建物のように思える。ナチスが生んだのは、破壊と死であり、その本質は虚無主義そのものであった。

また、この虚無の空間に囚人が消えていく話は、絶滅収容所に連行されガス室で殺されていったユダヤ人たちのことをただちに連想させる。何の目的で存在するのかわからない、巨大な四角四面の建物。ときおり、そこを訪れる管理人とナチス親衛隊員たち。その建物が「使用」されるのは、囚人が連行され、消滅させられるときだけである。

その郊外の家は、戦争が終わり、空間的には消滅してしまったかのように見える。しかし、その建物が立っていた土地がちょうど建坪ごと消失してしまっているかのように見えるという事実そのものが、その建物が存在していたいということを如実に示しているのである。悪とはかようなものであり、私たちの現実に空間的に存在することもできるのであるが、それは本当の中身をもたず、「虚無」という中身をもつだけなのではないだろうか。



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