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哲学も芸術も「抵抗」する:ドゥルーズ哲学と「内在平面」

今、ドゥルーズにハマっている。

ポストモダンの哲学者には、フーコー、ドゥルーズ、デリダなどが挙げられるが、果たしてドゥルーズとは一体何者なのか。

「差異と反復」「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」など、代表作の解説を読み流しても、一切頭に入ってこない。そもそも、本のタイトルがエッヂが効きすぎていて、判然としない。しかし、めちゃくちゃ気になってしまう。そんな哲学者ではないだろうか。

思い切って今、彼の晩年の著書であり、ドゥルーズ哲学の総決算とも言われる『哲学とは何か』(河出文庫)を読み始めた。正確に言うと、フェリックス・ガタリとの共著であるが、ドゥルーズ哲学の到達点が示されていると言っても過言ではないだろう。

数人の医師と一人の人類学研究者、哲学好きの農業人、一人の医学生で半年間かけて『哲学とは何か』を読む読書会を開いているわけである。これを読んでも、医学に直接役立つわけではない。彼らは(私を含めて)相当な物好きである。

例えて言えば、趣味で山登りしかしていない人間たちが、「そうだ、チョモランマ登ろう!」と軽い気持ちで、世界最高峰級にアタックしているようなものである。毎回、必死でかじりつくのだが、10メートル登ると20メートル滑り落ちる、そんな登山を続けている。

しかしながら、それで正解だったのである。「哲学する」ということは、ドゥルーズに言わせれば、暇人の遊びのようなものではなく、必死に「抵抗する」というロックンロールなのである。それは「生きる」ことの本質、例えば「死への抵抗」とか「隷属への抵抗」とつながっていることである、と。つまり、我々は知らずしらずのうちに、「分からないものに挑戦し、考え抜くからこそ哲学である」という、哲学の本質を実践していたわけである。

ドゥルーズは言う。哲学とは「概念を創造する」ということであり、決して、完成された知の集積を理解して博物館のように陳列することではないと。そして、ここでの「概念」とは、日常語の「概念」とは異なり、何か対象を指し示すものではなく、哲学者によって「署名入り」で創造されたまったく新しい体系である。一種の「ワールド」である。

例を挙げよう。デカルトは、「我考える、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」という哲学を打ち立てた。これが近代哲学の始まりだったわけである。自己の存在理由の発見であり、神なき近代という時代の幕開けであり、主観と客観というものの発見であった。これを発見するやり方が斬新だったわけで。「方法論的懐疑」と言われているやつだ。

「自分ってほんとに存在するの?自分って、いわば自己認識みたいなやつやけど、それって幻みたいにはかないものやね。どこまでも疑えるし。目の前に見えてる自分の手と思ってるものも妄想かもしれん。と疑いだしたら、この世界全体が妄想かもしらんしね。どうしよう。じゃ、徹底的に全部疑っていこうか。疑って、疑って、それでも絶対に最後は疑えないものが残ったら、それは確実に存在するものちゃうんかな。よし、世界、疑える。目の前のコップ。疑える。自分の手とか身体、疑えるけど、痛みとか感覚は存在するようだな。でも、妄想のときもあるね。でも、よく待てよ……こういう風に「考えている自分」は疑えないやん!だって、それがないとしたら、今考えていること全部崩壊するから。なるほど!だから、考えている自分だけは絶対に存在するんだ!」

このデカルトの哲学ワールド、いわばデカルトの立てた「哲学的問い」と、その思考体系全体が、デカルトが打ち立てた「概念」であり、これをドゥルーズは、デカルトが創造した概念(=コギト)と呼んでいるわけだ。

そして、ここでの哲学的概念(◯◯の哲学ワールド)にとって、そのOS(オペレーティング・システム)のように働くのが「内在平面」だ。ドゥルーズは「思考のイメージ」という別の言葉でも説明している。「内在平面」はかなり説明が難しいが、私なりに噛み砕いてみよう。

哲学っていうのは、ある意味、どんな「問い」を立てるのかということによって、思考の道筋が変わってくる。ソクラテスの哲学的概念「無知の知」は、その根源的な「問い」が、それまでの哲学者たちとは決定的に違っていたわけだ。「私はそもそも賢いのか?」「私は他の人よりも多くの知を持っているのか?」というのがソクラテスの問いであった。そして、それを考え抜いたあげく「私は無知である。まずはそれを認めよう。自分が無知であることを知ることから、哲学は始まる」というのが、ソクラテスが発見した「無知の知」だったわけだ。そこでは、彼が新しいOS(内在平面)としての「問い」を打ち立てており、そのOSの上に「無知の知」という新しい概念が創造されている。

この「内在平面」を打ち立てることができるか、その上に新しい「概念」を創造できるか、というところが哲学者の真価が問われる部分だ。これができた人は、まったく新しいワールドを作り出している。ソクラテスしかり、デカルトしかり、カント、ヘーゲル、ハイデガーしかりである。

だから、Aという哲学者とBという哲学者は、どちらがより正しいのか、という問いにはまったく意味がないとドゥルーズは断言する。なぜなら「内在平面(OS)」が違うからである。あらゆる(真の)哲学者の創造した概念とは、彼の「署名」入りで、新しい内在平面の上に創造されたものであり、したがって優劣を断じ得ない。

これは例えば、芸術も同じようなものである。実際、ドゥルーズは「哲学」と「芸術」には非常に共通点があると述べている。どちらも「死」や「隷属」など生きることに付随する「制限」に抵抗するものであり、「内在平面」「概念」「人物」のような構成要素をもっている。

例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチとゴッホは、どちらがより「優れた」芸術家だろうか。ダ・ヴィンチとゴッホの内在平面(=問い)はまったく違うものであっただろう。ダ・ヴィンチは、解剖学的正確さなどをも追求しながら、世界や人間という現象の裏に潜む真理のようなものを絵画によって写し取ろうとしていたのではないか。一方、ゴッホが追求しようとしていたのは、人間と世界が、この「私」にはどう見えるかという主観的な色彩世界の大胆な表現であっただろう。それぞれが新しい「内在平面」を打ち立てていたわけであり、OSが違うので優劣を論じるのは意味がない。

読書会に参加してくれてる医学生のOくんはジャズファンであり、彼自身もジャズバンドのドラマーなのであるが、ジャズと哲学の共通点で面白い例を挙げてくれた。
1968年のコペンハーゲン・ジャズ・フェスティバルでの、アート・ブレイキーのバンドの一場面である。3人のドラマーのバトル(ソロ回し)がある。その中で、サニー・マレイが、いきなり新しい「内在平面」を打ち立てるかのように、常識外れのプレイを延々と続けるのである。唖然とする他の二人、特にバンドリーダーのアート・ブレイキーの途方に暮れた表情が笑える。この場面は、YouTubeで観ることができる(以下リンクの1:05:47あたりから:https://youtu.be/jpGVBU0JgQc)。

「お前、何してくれてんねん!」とでも言いたげな、アート・ブレイキーの憮然とした表情が印象的だ。O君によると、サニー・マレイのこの爆発的な演奏は、いわゆるフリー・ジャズのジャンルからすれば非常に先駆的なプレイであった。しかし、当時の「常識的な」ジャズの演奏からすれば、全く理解不能なものだったようだ。サニー・マレイは新しい「内在平面」の上に新しい音楽的「概念」を創造したわけである。

ドゥルーズは面白い。なぜなら、読んでいて、なぜか元気になってくるからである。それは、抵抗しようぜ、常識を疑おうぜ、というパンクの精神にも通じるものだからではないか。ここで、パンク・ロックの歴史とセックス・ピストルズの革新性について書きたくなってきたのだが、長くなりそうなので、それはまた別のお話で。



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