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「違和感」と自文化中心主義

『医師と人類学者との対話―ともに地域医療について考える』(協同医書出版社, 2021年)という本を読んでいる。地域・へき地医療で働く若い医師たちの苦悩を人類学的に掘り下げている興味深い本だ。

冒頭の自治医科大学出身の医師の語りの中ではっとする部分に出会った。

異文化なのだから違いがあって当然という視点は、一見すると異文化への理解を示しているように思えるが、実際は異文化へのより深い理解を妨げており、むしろそこには異文化への無関心と自文化中心主義が内在している可能性すらあるという論説が非常に印象的だった。異文化に触れた際の違和感を素直に受け止め、自文化と比較することにより異文化を理解する。(上記書籍 8ページ)

この医師は北海道で働いているときに、病院によって疾患をみる「文化」が異なるということに気づく。そのときの「違和感」を振り返ってみて、そこに大きな意味が隠されていることを述べる。

例えば、最初に研修した病院では、脳梗塞の患者を脳神経内科がみるのが普通だったが、異なる病院で働いたときに脳神経内科には脳梗塞患者が一人もいないことに気づき驚く。その病院の地域では脳神経外科が脳梗塞患者をみていたのである。そして、その背景には北海道で医局制度が色濃く残っており、その歴史的背景から病院(医局)の文化によって疾患の担当が異なっていることに気づくのである。

医療や医学の世界で働いている私たちには、ときおりこの「文化」という視点が欠如しがちである。人類学者ジェイムズ・ピーコックによる文化の定義は「文化とは、特定の集団のメンバーによって学習され共有された自明かつ極めて影響力のある認識の仕方と規則の体系」とされる。つまり、私たちは「自文化」というメガネをかけているのだが、そのメガネの存在さえ忘れたときに自文化中心主義に陥る。

自文化中心主義を脱却し、文化相対主義の視点からものごとをより深く洞察するためには、「違和感」を大事にし、自分の「メガネ」に気づくことである。

3月15日のnoteで医学生時代の違和感について書いた。そのとき私は、病院や医師という文化に対して違和感どころか嫌悪感のようなものを抱いていたと思う。その感覚は今だいぶ薄らいでしまったが、ときおりあの感覚を思い出す。違和感を大事にし続けたことは、それはそれで良かったのだろう。

もし二十歳のあのときに、この違和感と自文化中心主義の話を知っていたら、少し違って考えられたのかもしれない。違和感を感じた上で、相手(異なる文化)に対して単に嫌悪感を覚えるのではなく、自分の文化(認知や価値体系)をふりかえり、自分とは何か、自分が大事にしている価値とは何かといった洞察を得ることもできたはずである。


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