プラトンが語ろうとした「魂(プシュケー)」の意味とは
西洋哲学研究者の中畑正志さんによるプラトン哲学の入門書である。プラトンは、古代ギリシアの哲学者であり、ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」と述べた。
プラトンがいかに偉大な哲学者であるかは、彼の著作が2000年以上前のものであるにもかかわらず、その多くが今まで残されているという事実からも分かる。これは極めて例外的なことである。彼の著作の最大の特徴は、ほとんどが「対話篇」の形式で書かれていることである。そして、著者プラトンの名前はほとんど出てこない。当時の哲学者の著作は(現代と同じように)「わたしは……と考える」と一人称で書かれることが普通であった。しかし、プラトンはあえて、自分の名前を出さずに、さまざまな登場人物に意見を述べさせるという形で書いている。これは意図的なものであり、この書き方自体が、一つの答えに読者をまっすぐに導くのではなく、読者を深く考えさせ、さまざまな見解を検討するという「批判」的な読み方に誘うものとなっている。この書き方自体が革新的であった。
プラトンの著作の多くにソクラテスが登場する。ソクラテスと複数の話者との対話である。しかし、他の話者もソクラテスのための「噛ませ犬」として登場するのではない。あくまで、彼らの思想は並列に述べられ、どの見解が正しいのかは最後まで明らかにされず、読者に委ねられるような書き方になっている。しかしながら、プラトンはソクラテスの弟子であったし、プラトンの著書を注意深く読んでいけば、ソクラテスが提示する問いや議論がとりわけ重要な考えとして受け止められることが期待されていることが分かるだろう。
そのソクラテス(つまりはプラトン)が説いたこととは「魂ができるだけすぐれたものとなるよう配慮する」ということだった。ここでの「魂(プシューケー)」とはどのような意味を持つものであろうか。当時からこの「魂」という言葉は、さまざまな意味で使用されていた。例えば、叙事詩作家のホメロスの作品では、「魂」は死とともに人の肢体から去っていく霊・亡霊的な存在として使われている。その他にも、われわれの言うところの「心」の働きに近いものも意味されていた。哲学者ヘラクレイトスは、言葉や理(ことわり)を意味するロゴスの概念と結びつけて、「知的はたらき」を示唆する言葉として用いている。ギリシア悲劇では、「さまざまな欲求や感情の座」としての意味で用いられている。しかしながら、プラトンがこの「魂(プシューケー)」を使うときには、「いのち」あるいは「生きることの源」「生の原理」という意味で使われているという。つまり、プラトンの言う「魂」を精神や心と同一視することはできない。
そもそも、魂と心とは、哲学的意味においてはライバル関係にあるという。それは、「心」「精神」(ラテン語:メンス mens、英語:マインド mind)という概念自体が、「魂」の概念を排除するために、人間の思考の表舞台に登場した概念だからである。ここでは、デカルトが果たした役割は決定的だった。彼は、古代以来の「魂」の概念を否定することを通じて「心」の概念を確立したのである。この「心」の概念の核にあるのが「意識」の概念である。この概念のおかげで、感覚や思考、感情や欲求、幻覚や想像のすべてを、何らかの意識のはたらきとして、「心」の概念のもとに収めることができた。
現代人にとっては「心」という概念は自明であり、もはやそれなしで世界のあり方を考えることは難しい。しかし、古代ギリシアではそうではなかった。プラトンは「魂」を論ずるときに、感覚知覚や思考、欲求や感情など、いわゆる「心」のはたらきに多く言及していることは確かである。ただし、プラトンのいう「魂」とは、「生きていることの原理」として理解するのが正しい解釈であると思われる。
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