長めの小説書こうとしたら無理だった話


「あの時を今」という、2万5千文字程度の小説を約3ヶ月かけて書いてみた。3ヶ月かけてというよりは、生活の隙間を探して書いていたので、3ヶ月かかったというのが適切か。この小説を書き始めた当初は、本1冊の目安となる8万文字程度を目指して書いていたのだが、書き終えてみれば半分にも満たない文字数で終わっていた。



当初、8万文字程度は書けるくらいの内容でシナリオを構成していた。しかし、書き進めて1ヶ月が経過した辺りで、当初の構想とは異なるストーリー展開になっており、主人公の性格も徐々に変わっていた。これは、何故だろうか。自分で考え、自分で描いているはずの物語なのに、途中から、登場人物を自分の考えたシナリオに収めようとすると、どうにも辻褄が合わない感じになってきたのだ。



登場人物が勝手に動いたというよりは、登場人物をより人間らしく描こうとした結果、登場人物がアグレッシブに動かず、予定していた劇的な展開に辿り着かなかったのだ。「事実は小説よりも奇なり」という言葉があるが、現実の世界には偶発的な展開があるため、展開が決められた小説の世界よりも、奇妙なことが起こるのだろう。小説を書き始めた当初、主人公は行動力のある積極的な人物を予定していたのだが、人間らしさを求めた結果、保守的な人物になってしまった。これは、無意識に私の人間性が反映されてしまったのだろう。私の中に無いものは、私の外には出てこない。目新しさには魅かれない私の内面が、小説に現れてしまったのだ。



ここで勘違いしないでほしいのは、私の中で目新しさに魅かれないことは悪いことではないということ。新しいものを求めず、今持っているものをより良くしていきたいという考えが私の根本にある。ゲームで例えるならば、新しい武器よりもレベルアップを重視するといったところだろうか。



他にも予定より小説が短くなってしまった理由はある。それは、テンポだ。私は文章を書く際、何よりも文章のテンポが気になってしまう。話の展開や、言い回し、文章の段落分けに、句読点の位置、こういった要素が文章のテンポを左右する。私の中では、「おはようございます。良い朝ですね。」よりも、「おっはー!グッモーニン!」の方が読み心地が良い。小説を書いている時、この感覚が私の邪魔をしたのだ。



小説を書いていて気が付いたのだが、丁寧な風景描写や、心理描写をテンポよく行うのは、かなり難しかった。というか、私には出来なかった。アップテンポなバラードを作れと言われている様な感覚。小説初心者の私にはかなり無理。書き始める前は、丁寧に描こうと思っていたいろいろが、読み心地を重視した結果、完成品の無いダイジェスト版みたいなことになってしまった。



そもそも私は、文章を簡潔に書きたいタイプなので、長編の小説を書くのには向いていなかった。「あの時は今」では風景の描写など、ほとんど描かなかった。物語の本編に直接関わってこない部分は、我慢出来ずに削ってしまったのだ。余白はご自由にどうぞ、という乱暴なスタイル。申し訳ない。物語の本筋のみを簡潔に描いた結果、先に述べた通り、完成品の無いダイジェスト版みたいなことになったのだ。



アグレッシブに動かない登場人物、テンポ重視の言い回し、本筋のみを簡潔に描くスタイル、この3つが、8万文字が2万5千文字になってしまった主な要因だ。しかし、短くなったからと言って小説がつまらなくなったかと言われれば、そうではない。自分で言うのもなんだが、そこそこ面白いと思う。仮に8万文字書いたところで、面白さに関してはそれほど変わらないだろう。むしろ、間延びしてつまらなくなる可能性もある。



これは、私が小説を書く場合の話であって、誰にでも当てはまるわけではない。もしかすると、私にしか当てはまらない可能性もある。それは、誰からも共感を得られないということだが、決して悪いことではない。独立した感性には、他者からの興味を惹きつける魅力がある。しかし、ただ独立していればいいというものでもない。その感性を理解したいと思わせるくらいには、そのもの自体が魅力的でなければいけない。



好奇心をくすぐる独立した感性が発露している文章を書ける様な人間に、私はなりたい。

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