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躁鬱は、凸凹コンビで息をする。

僕が躁鬱を発症してから、なんとか息をできてきたのは、凸凹を使えたからである。

躁鬱を発症した時は、その過酷な現実に飲み込まれ、絶望し、死ぬことを毎日毎日考えた。

受け止め切れない狂った現実がそこにあり、何度ももがいて前の自分に戻る策をひたすらググって、考えては試して、失望して、また考えては試して、絶望して、また振り出しに戻ってというように何度も同じことを繰り返していた。ああ…僕は、凸凹になってしまった。錆びた工具。狂ったピエロとまで自分を卑下して、普通に生きている人が羨ましく、そして憎く見え、世間を斜めから見らようになっていた。くる日も来る日も、光の見えない暗闇の中でもがき苦しんでいた。


失望を幾度となく重ねた後に、一つのことに気づいた。凸凹になってしまったということは、凸凹を自分の力だけで、四角に戻そうと思うのではなく、欠けてしまったピースを探せばいいのではないかと。

暗闇の中での気づきだった。

そして、躁状態の時に自分が人よりもできる事に目を向けた。もちろん、このように目を向けられるようになったのは、躁状態の時である。鬱の時は、とてもといっていいほどそういうような発想にはならない。

何ができるのかを、自分なりに考え、また自分だけの意見だと偏ってしまうので、周りの人たちにも意見をもらった。発症前の友人は、ほぼほぼ消え去ってしまっていたが、発症後にありがたい事に、症状を伝えても理解を示し残ってくれた友人が数人いたので尋ねた。

するとこのようなことがわかった。

初見の人に対するコミュ力が異常なまでも高い。行動力が人並外れている。色々な発想があって面白い。オーラや、立ち振る舞いがキレている。人目を気にせず、自分の世界観で生きているように見える。刺激的で、ワクワクする。


そして、その特色はどのようなものに有効であるのかを考え、世にある仕事と照らし合わせてみた。そこには、企画すること、営業すること、仲間を探すこと、共同経営で経営をするということが見つかった。

僕の場合は、四ヶ月が躁状態で、五ヶ月が鬱の状態なので、四ヶ月の躁の状態でなにができるのかをわかると同時に、残りの五ヶ月の鬱の状態では何ができないのかがわかる必要があった。


鬱の状態では、頭が働かない。人にあっても会話がぎこちなくなり、頭が真っ白になる。なので、人に会いたくなくなる。自信がなくなる。死にたくなる。寝ても寝ても物足りない。生活リズムがおかしくなる。気を紛らすための、SNS依存。過食。躁の時に考えていたこと、言ったことを思い出せない。

などということがわかった。

自分のできること、できないことを洗いざらい捻出した後に、パートナーを探した。

活動力のある躁の時はいいのだが、鬱の時にできないことを埋めてくれるパートナーがいれば、なんとか成り立つのではないかと思い、鬱の時に自分のできないことをやってくれる相方を探した結果、奇跡的に一人見つかった。


類は共を呼ぶではないが、その彼も、躁鬱持ちであり、ADHDと診断をされている人間で、過集中があるが、何ヶ月も鬱が続くというものではなく、3日躁で、3日鬱でのような特質の人間だ。彼は、技術者であり、映像の仕事ができるクリエイターだったので、僕が躁の時に営業で撮ってきた仕事を、彼にパスして仕事を進めてゆくという形をとったのだ。


前もって自分のできることできないことを相手にしっかりと伝え、それでもって相手との仕事の負担量を話し合い、パワーバランスを決めて、ギャラ配分を決める事にしている。

躁の時に、料金体や会社のコンセプト、仕事の進め方を決めて、鬱に入っても困らないよう準備をして、鬱の時に余計なことを考えずに済むように、鬱の時は自分に仕事が入らないように手回しをしている。

このように、躁鬱は凸凹コンビを作れる可能性をとても秘めていると思う。

みんながみんな、症状は似てるとはいえ、できることできないことが探せば、あるはずだ。健常人とコンビを組むとどうしても、迷惑をかけすぎてしまったり、申し訳なさが勝ってしまい負い目を感じることも多いと思うので、そうではない、凸凹チームの方が僕はいいと思う。お互いに持ってないものを埋め合う。オープンにお互いを出し合って協力する。一人では、社会で生きていく上で、障害が多すぎて息が詰まることが多々あると思う。健常者の中で闘っていくにはあまりにもフィールドが合わないと思う。しかし、2人合わせて闘っていくことができれば、個性的でユニークな凸凹コンビで闘ってゆけると思う。

今の時代は、SNS時代であり、凸凹になってしまった人との出会いは身近である。自分のことをありのまま開示して、その中で適切なパートナーや、環境が見つかれば、躁鬱人は異彩を放つことができるのではないだろうか。坂本龍馬の名言で『人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある』というが、まさにそうだと思う。勿論、その中でうまくいかないことも多々あると思うが、探し続ければ必ず道はそこにあると信じて僕は進みたいと思う。こういうことを言いながらも鬱の時は、死にたい死にたいが頭から離れなくなるのですがね。

躁鬱は凸凹コンビで息をする。



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