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「忘れるな」

アートに造詣が深いわけでもなんでもないが、ものすごく好きな画家がいる。いや、詩人というべきか。詩画人、四國五郎さんだ。生前直接お会いしたことはないのだけれど、アートにものすごく力があるんだということを、私は四國さんが遺した作品からひしひしと感じてきた。

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絵を描き、詩を書き、文章をつづり。時にはそれらを一緒に一枚のキャンバスに乗せ、ものすごい数の作品を遺して、2014年に89歳でひっそりと亡くなった四國さんは、シベリア抑留を生き抜き、復員後に戻った故郷・広島で、愛する弟の被爆死に直面した自らの体験を、生涯、絵筆にこめ続けた人だ。広島市内に今もある彼のアトリエは、遺族ですらまだすべてを把握していないほどの量の作品や資料などがそのまま残っている。

廿日市で四國さんの展示「四國五郎 平和へのメッセージ〜シベリアからヒロシマへ」が開催中なので、みに行った。四國さんのご長男、光さんには、新聞記者時代から何度もお会いしてお話を伺ってきたが、ちょうどその日に在廊されていたので、お話を聞いた。ここで共有します。

そして、この展示、今週末、17日までです。ぜひ、多くの人たちにみに行ってほしいなと思います。


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思い出せ、忘れるな。

僕はいつも説明しているけれど、父の展覧会って戦争なんですよ。こういう街中で普段、戦争なんて考えないけど、そこで出会う戦争なんです。戦場とか死体の絵とかむごたらしい絵はないけど、全部戦争。戦争の結果、起こされたものを、ことを、かいている。そこに込められているメッセージは本当にシンプルですよ。

戦争を思い出せって。忘れるなってことなんです

それは、父自身が体験したこと、自分が体験した戦場、シベリア、それから家族の被爆。そういう三つも、ある意味で、そこまで体験するかぐらいのことを体験したわけじゃないですか。どんな悲惨なものか、想像を越えた悲惨なものだって。骨の髄までわかっている。それを父はなんとか伝えたかった。

それともう一つは、父自身の反省の根っこにあったこと。日本人は忘れているけど、実は日本は戦争大国で、明治以降ずーっと戦争をし続けたアジアで最大の好戦的な国だったということ。すごい数の人間を殺めた事実っていうのが、ほとんど伏せられてしまって、あるいは顧みていない。そういう為政者の下に、今、日本人は暮らしているんです

そういう中では、どんどん記憶が風化するのは当たり前だから、自分は表現ができるわけだから、絵であり、詩であり、そういうもので戦争を知ってもらって、「戦争には近づかないでくれ」と訴え続けた。それが一番大きいでしょうね。だからこそ、描くんだと。

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自分の歳を考えて思ったと思うんですけど、いずれ戦争体験者はいなくなる。間違いなくゼロになる。だから、かき残さなきゃいけないと。絶対に書き残して伝えて、それをみることや読むことで気づいてもらう。そういう表現をずっと続けてきた。

伝えたいものがあるかどうか

表現には力があるってのを、父自身がものすごく感じたのは、市民が描いた「原爆の絵」だと思うんですね。

あれを呼びかけて、たくさんの絵が集まって、NHKに呼ばれてそれを全部見ている。その後、父は幻視を見るようになる。自分は体験していないのに、被爆者が描いた絵を見て、自分の中の大きな器みたいなものの中に他者の記憶を取り込むことによって、他者の記憶が自分の経験になってフラッシュバックしていく。被爆者が現れて目の前で倒れる。そういう幻視を見るようになった。それによっておそらく父は、表現の持つ独特の力ってすごいなって改めて思ったと思うんです。表現に上手い下手は関係ないと。

伝えたいものがあるかどうかこそが大事なんだ、と

その頃に描き始めたのが、「おこりじぞう」なんですね。

単なる子供向けの絵じゃなくて、色んな人に理解してもらうためにはどうしたらいいかってことを考えた末の作品です。だから、おそらく言葉として相応しいかわからないけど、「ユニバーサルデザイン」みたいな、共通言語として描いたんだと思うんです。子供にも大人にも、老人にも、戦争が好きな人にもわかってほしいんだっていう

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父自身がよくわかっていたけど、為政者っていうのは必ず間違うと。とんでもないことをやる。自分たちは傷つかないけど死ぬのは子供であり母であり、若者であり。為政者は絶対に傷つかない、そういう間違いを為政者は平気でするっていうのを歴史は証明しているわけですから

たまたま自分は絵を描く技術、詩を書く技術というのを不十分かもわからないけどたまたま持っている。芸術作品を狙って作るんじゃなくて、自分が体験した戦争を、表現してそれを伝えて、見てもらうことで、実際の戦争には近づかない。それが今の言葉でいえば「抑止力」だっていう風に思っていたと思うんですよ。

その一番の証拠が、抑留中にひそかにつけていた「豆日記」、シベリアの仲間達の名前をびっしり記した飯盒でしょ。それから、ナホトカで出会った人たちのスケッチ。

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絶対に持ち出しちゃいけない。見つかったら死罪。わかってやっているわけですから、ということは絶対にこれを持ち出して日本に戻って、戦争を伝えると。持ち出さないんだったら死刑になってシベリアで命を落としてもしょうがないなって。

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すごくびっくりしたのが、シベリア時代の親友がご存命の時に、熊本まで会いに行った。彼は私に、「五郎さんはシベリアの時から記憶を伝えていかないとって言っていた」と言いました。本当にびっくりしましたよ。収容所の中ですよ。自分がどうなるのかわからないのにそういうこと言っていたんだって。豆日記も飯盒もナホトカのスケッチも、父にとっては絶対に持って帰らないといけなかった。なんとしても。だから、一貫していたんだなあって。

戦争の絵の中に、為政者はいない

広島では戦争が、原爆を中心に語られるけれど、父は戦争そのものを伝えようとしたのだと思います。

でかいんで、あんまり展示をする機会がなかったんですけど、縦長の、あの戦争の絵。父にとっては、戦争ってこれに尽きるんだと。戦争の本質を凝縮した絵だと思っています。

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全部、死しかない。死体だけ。これらはアジアの死体だし、その中には日本人の女性も、原爆ドームも描かれている。四國五郎の名札をつけている者もいる。全部つながっている。そして、左の方のこの女の子だけ一人、生きている。この子が死体の山の一つになるのか、それとも生き延びるのか、それはこれを見ている人次第だと。どういう考えを持ってどういう行動を取るか、それ次第ですよと訴えている。

父の反省でもあるわけですよね。自分は若い頃に軍国主義一辺倒の教育を受けて、広島陸軍被服支廠(軍靴や軍服を作る広島市内の軍需工場)で働いて、加害の側にいた。で、なんの疑問も抱かずに戦争に行って、天皇のために死ぬぞと言っているけれど、たまたまシベリア抑留になった。強制労働と寒さで血を吐いて半分死ぬような体験ですけど、そこで色んな考えを見つけて、いかに自分たちが間違えていたかを知った。

シベリア抑留っていうのは、地獄であり青春だったって父は言ってましたけど、異文化への体験、全く触れたことがなかった考え方に触れる学びの場だったんだと思います。そこで初めて民主主義を知って、収容所の中を民主化しようっていう運動を始める。その中で、自分が子供の頃詰め込まれたことを反省して、まったく考え方が変わった。そこが原点になっているんでしょうね。

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小田実の言葉で「殺し、焼き、奪い、そして、殺され、焼かれ、奪われた」というのがありましたが、戦争ってそれ以外にない。戦争を起こす為政者っていうのは、この戦争の絵の中にはいない。だから、父はよく言ってましたよ。戦争を起こさないためにはそういう人間を我々が選ばないといけないと。戦争を起こそうとする人間を、排斥する。それしかない。だから選挙が大事なんだって

姉貴が二十歳になった時に、なぜか棄権をした。そしたら、父は怒った。日本で婦人が参政権を取るためにどれだけ苦労したか、ここに至るまでの日本の歴史がどれだけひどいものだったのかわかるか、って。姉貴は、「わかりました、わかりました」って。「二度と棄権しません、許してください」って。それでもわかっていないって言って4時間延々と。

父は、シベリア体験と戦争体験がライフワークって言いながら、最終的に「わが青春の記録」しか書かなかった。

まとまったものはあれしかない。あれは公表する前提で書いていないので、結局手付かずだったんだなって思っていたんですが、数年前、アトリエにメモが残されていたのを見つけたんです。自分が何をしたいか。

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戦争を記録した下級兵士

それが、驚くべきことで、「わが青春の記録」と同じように絵と文字で、その時にすでに70代を超えた父が、もう一度戦争体験を整理する、振り返るということを考えていたようなんです。なんとそれ、800ページ。おそらく、わが青春の記録は若い頃にだーっと勢いで書いたものだけど、その後に色んなことを体験して考えも変わって、成熟した目で、自分にとって戦争体験がなんだったのか、自分は今どう思っているのかっていうのを一回振り返るということを考えていたようなんです。おそらく、そういう構想を考えているうちにアルツハイマーになってしまった。

もし書けていたら「わが青春の記録」と合わせると、トータル1800ページの戦争の記録。とんでもない。実は「わが青春の記録」は、ジョン・ダワーさん(「敗北を抱きしめて」で知られるアメリカの歴史学者)に送ったら、絶賛してくれた。すごいいいことが書いてある、世界に類のない文章で、一下級兵士の視点でずっと書かれた貴重なものだって。戦争を体験した下級兵士の記録、世界に例のない記録ができていた。惜しかった。これは惜しかった。

家にはね、1940年ぐらいからかな。44年に入営してからずーっとながーいカレンダーが書いてある。書くために何年に何があったのかをずっと記録している。最後はずっと空欄。かなり細かく整理をして、家にも戦争の本、抑留の本、体験記を買い込んでさあって時にだめになってしまった。皮肉というか。無念だったろうなって。

(四國光さんの言葉はここまで)

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廿日市市のはつかいち美術ギャラリーには、戦後の言論統制の中、街角の壁や電柱などにゲリラ的に張り出し、危険を感じたら取り外して逃げる、という手法で反戦へのメッセージを表現した「辻詩」の原画や、世代を超えて読み継がれる 「おこりじぞう」(作・山口勇子/絵・四國五郎)の原画など、1940年代から1990年代まで四国さんが描き、書き続けた表現物、約100点が並んでいる。

「1946年、埋葬者を運ぶ私を写生する1993年の私」(油彩、キャンバス)は、記憶に深く焼きついたシベリア抑留時代の体験を詳細に描いた一角に、その絵を描いている、初老の自分の姿を表現した。半世紀近くの時空を超えて、それでも忘れられない、忘れてはならない戦争の記憶を表現しながら、それを見ている「今の人」に、その月日の隔たりを経て、人間はどう変わったか、戦争をしない世の中に近づいたか、を静かに問いかけている。

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「広島原爆資料館」(1975年/油彩、キャンバス)は、セーラー服の少女の横に、ボロボロになった制服の展示物が描かれている。よく見ると、左胸には、「四國五郎」の名札がある。戦争において、生きるか死ぬかは紙一重だということ、生き残った人間は、もう声すら上げられない、原爆資料館の展示物になってしまった遺品に声を吹き込む存在でなければならない、という四國さんの思いを感じる。

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展示の大半は撮影可能だが、作品の規模感や筆遣いはどうしても写真では伝わらない。なので、これを読まれたお近くの人は、ぜひ、はつかいち美術ギャラリーに行ってみてください。観覧無料。開館時間は、10時〜18時(入館締め切りは17時半)。

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新聞記者時代に書いた記事のリンクをつけておきます。つくづく、四國五郎さんのことは、十分に伝えきれていないなあ、という反省を込めて。

ちなみに、私が展示を見に行った時、知人が会場にいて、四國五郎さんが1977年4月に描いた「雨の十日市町」という、額縁入りの鉛筆画を持ってきていた。年老いて色々と家の整理をしているときに出てきて、貴重なものだからきちんと残されるべきだと思って、と遺族にお返しに来たという。つい先日、撤去された、広島電鉄十日市電停近くの「十日市信号所」(通称・鳥の巣)が描かれていた。

四國五郎さん、街角のこんなものも絵の中に残そうとしたんだな。いずれなくなってしまうって知っていたのかしら。

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