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「新聞記者辞めます」を真っ先に伝えるべきだった大先輩のこと

今朝、天満川沿いを走っていて、緑大橋東詰近くのモニュメントの前で足を止めた。緑大橋は、広島市中区と西区の境を流れる天満川をまたぐ平和大通りの橋だ。4年前の今日(日付けは変わったが)2017年4月2日、この場所で、ある方に初めてお会いした。

関千枝子さん。2月21日、88歳でその生涯を終えた、広島の被爆者であり、元新聞記者のフリージャーナリストだ。

あの日、東京在住の関さんは、フランスから来た映像作家の取材に応じるため広島に来ていた。そして、わたしにとっては、10年ぶり2度目の赴任となった広島で、初めての取材だった。前日の4月1日が着任日で、子ども2人の保育園初日。ひとしきりドタバタしていたが、翌2日日曜日は子どもを夫に任せ、昼前から取材に行った。

「原爆三百六十九霊塔」とかかれた旧制広島市立中学原爆慰霊碑のところに、関さんはいた。関さんは「私は見たことないんですけど、骨が入っているんですって」と言った。そこには遺骨も納められていた。

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広島市内中心部にある学校単位で建てられた慰霊碑の多くが、児童生徒教職員らの罹災の地に建てられているが、この慰霊碑もそうだ。爆心地から南西に約900メートル。約370人が犠牲になった。

関さんとの出会いの後、防災目的の堤防整備のため、慰霊碑は2㌔北東にある市立基町高校に移された。遺骨は、平和記念公園にある原爆供養塔に納められた。慰霊碑があった場所には、モニュメントが建てられた。

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あたりは一変した。今朝は散り始めたサクラがゆれていた。

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後に知ったが、関さんは、初めてお会いしたあの日のことをネット上に記していた。

(いつものように)長ーい文章の最後の方で、「このことだけは、書いておきます」と記して、あの日取材していたフランス在住の女性映像作家、その様子を取材していた中国新聞の女性記者、そして私がいずれも同世代であることについて記し、「被爆三世世代の女性たちの真剣な取材に接して、私も身が引き締まりました」と締めている。

「川が死体でいっぱいになった。広島にはそういうのがいっぱいありますから」「このへんは全部火の海でね」「みんな、お国のためだって」。あの日、関さんはそんな風に、子と孫の間世代の私たちに教えるように語りかけながら、平和大通り付近に点在する碑をクルーを引き連れて巡り歩いた。同世代の動員学徒たちがおおぜい犠牲になる中、自分は生き残ったーー。そんな重荷を背負った背中は大きく曲がっていた。

結局私は、あの日のことを記事に書くタイミングを逃し、今に至る(その日の午後に取材にしたシンポジウムのことは記事に書いたのに)。

彼女の訃報を聞いたのは2月26日。そのちょうど1週間前、私は東京への異動内示を受けた。そして、2月24日に退職願を出していた。

「新聞記者を辞め、引き続き広島で子どもと一緒に暮らすことにしました」。落ち着いたら関さんには伝えるつもりだった。というか、新聞記者で被爆者の孫である私は、関さんにこそいち早く伝えなければならなかった。伝えていたら、彼女はなんと言っただろうか。賛成したか、反対したか。

数日後、朝日新聞広島版に、私が新聞記者として書いたおそらく最後の記事が載る。関千枝子さんの追悼記事。短い行数では書ききれないけれど、たびたびお会いし(ちなみにリンクを貼った関さんの文章の冒頭に書いてある戸田照枝さんは、関さんと一緒にお見舞いに行った)、記者の生き様、そして広島の人間の生き様を示してくれた関さんへの感謝の思いを込めて書いた。

私の広島での新聞記者生活は、関さんに始まり、関さんに終わる。

日付け変わって今日4月3日は、関さんの思い出を語る会が東京の片隅で開かれるはずだ。行きたかったが、子どものことやコロナのことを考え、くやしいけど断念した。記者を辞めずに東京に転勤していたら取材できたのに、というのがまた皮肉。

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リンクをはった関さんの文章「対話随想」は、広島で被爆し、今は大分・別府にすんでいる中山士朗さんとの対話。「往復書簡」「対話随想」と、これまで4冊、西田書店から書籍化されているが、関さんの死後の3月26日に5冊目「続ヒロシマ対話随想」が出た。

1冊目から、読み直そうと思う。

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