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「明日も喋ろう。 弔旗が風に鳴るように」

21年間のサラリーマン生活に区切りをつけ、
19年間働いた新聞社を辞めたのは、
昨年の今日、7月8日だった。
退職から1年以内にやらなければならないのに後手後手になっていた手続きをやっと済ませたということを証明する書類が、元職場の本社から届いた。

組織の一員ではなく、一人の生活者として、
自由にものを書いたり話をしたりしながら、
個人の尊厳が大切にされる良き社会の実現のために、
ちょっとでも貢献できたらと思いながら、
引き続き、「言葉」を通じて社会に関わる暮らしを続けてちょうど1年。
サラリーマン時代にはできなかったような、
社会との関わりなんかもあれこれする機会に恵まれ、
世の中がより広く深く見えるようになった。

だから、脱サラ記念日の今夜は、
自分にとってのささやかな節目として祝杯をあげようと思っていた。

しかし、言葉を、言論コミュニケーションをこんなにも無視した、
民主主義をこんなにも愚弄した出来事を目の当たりにするとは。
対話と議論のない社会の成れの果て。世も末だ。

久しぶりに、あの言葉を思い出した。

「明日も喋ろう。弔旗が風に鳴るように」


私が朝日新聞社に入社した20年前、つまり2002年は、1987年に朝日新聞阪神支局で発生した記者襲撃事件が時効を迎える年だった。1987年5月3日夜、兵庫県西宮市内の編集室に押し入った覆面の男が、小尻知博記者(当時29)に散弾銃を向け、殺害。同僚も負傷した。


15年間捜査にあたってきた兵庫県警を担当する神戸総局に新人記者として配属され、事件が発生した5月3日、憲法記念日は事件現場となった阪神支局にいた。事件はこの日、時効を迎えた。
当時のデスクは、小尻記者の同期だった。

次に配属された広島総局は、事件で犠牲となり、29歳という若さで未来を絶たれた小尻記者の故郷・広島県呉市を管轄している取材拠点だった。
今度は、所属長が小尻記者の同期だった。

広島市内から1時間半ほどかけ、瀬戸内海を望む高台にある小尻さんの墓を参るのが、広島の記者としての憲法記念日の過ごし方だった。
ご両親がご健在のころは、お宅にお邪魔してお話を聞いたりした。

当時私は、亡くなった小尻記者と同じ年。
寂しそうな、うれしそうな、それでもやっぱり悔しそうな表情で、
お父さんもお母さんも接してくださり、激励してくださった。
ご両親はその後、立て続けに亡くなられた。

いったん広島を離れ、2回目の広島赴任となってからも、
毎年、赴任したばかりの新人記者を連れて墓参りに行った。
かつて墓参りに東京から来ていた社長は、いつしか来なくなっていた。
当時の社長は、小尻記者の同期だった。

阪神支局には、小尻記者の友人が詠んだ句が掲げてあった。
それが、あの言葉、「明日も喋ろう。弔旗が風に鳴るように」だった。

権力の横暴や暴力に怯まず、議論や対話を続けよう。
書き続けよう。
言葉で世に問い続けよう。
そういう意味だと理解した。

それを、先輩の無念に思いを馳せながら、
記者であった19年間ずっと心に刻んできた。


阪神支局で弔問客の受付などをしていた時、小尻記者からかつて取材を受けたという市民団体の人が来られていた。「ハトを釣り糸から守る会」の方だった。釣り糸を足に絡めてハトが傷ついているという問題を提起し、それを小尻記者が記事にしたことによって発足した市民団体。
街に転がっている小さな、だけど大きな問題に温かい視線を向け、現場をかけずり回って取材している小尻記者のことを想像した。

こういう記者になりたいなあ、と思った。

特ダネ記者にはならなかったが、街ダネ記者にはなったかな、と振り返る。

私の最後の職場となった広島総局では、小尻記者のお母さんが詠んだ句が掲げられてある壁のすぐ目の前の席で仕事をずっとしていた。
「憲法記念日 ペンを折られし 息子の忌」

小尻記者の命を奪った卑劣な犯人は、いまも逮捕されていない。ひょっとするとどこかで何食わぬ顔をして生活しているかもしれない。

朝日新聞を辞めた理由はいろいろあるが、対話や議論が現場からなくなったことが大きい。高圧的な人たちが、トップダウンで物事を決める。やれったらやれ、と。
どんどん東京中心の組織になっていって、地方都市の社会課題にじっくり取り組む職場環境もなくなってきていると感じたことも大きかった。

そういえば、人権問題などの社会課題を取材しようとしている記者から、最近とても仕事がしにくいという話を聞く。それもあちこちから。「PVやCVをとる記事を書け」と指示されるという。セクショナリズムも甚だしく、出張もままならないとか。

小尻記者が生きていたら嘆いているだろうな。

そんなこんなで組織を離れて1年。
直前に事件の一報をパソコンのディスプレイで見たのは、昼12時からのリモート取材を始める直前だった。取材を終えた後、さっそくテキストを打ち始めたが、悶々と考え事をして目の前の原稿に手がつかずにいた。

もともと、新聞社時代からお付き合いがある取材先と軽く1杯飲む予定にしていた。迷ったが、気分転換のために、ちょっとだけ顔を出すことにした。
小さな飲み屋のカウンターに陣取り、上にある小さなテレビを見上げたら、速報で安倍首相が亡くなったことが伝えられた。

断じて許せない。主義主張があるなら、言葉で伝えればいい。
暴力で人の命を奪うなんて、誰に対しても許されない。

雨宿りに店に入ってきた88歳の男性が、テレビの画面を見上げ、お怒りの様子だった。「この人はもう前の前の首相なのに、なんでこんなに何時間も報道し続けるんだ」と。私たちは、いや、そうじゃない、選挙運動中に政治家が銃弾に倒れるなんて、民主主義社会ではあってはならない大事件なんだと若輩者ながら反論した。

その後、戦争の話とか家族の話とかなんとかあれこれ話をして、男性は病み上がりの妻を心配して雨の中を家路についた。

iPhoneが仕切りに大雨警報のアラームを出してくる。
私も、ほどなく店を出た。
店を出たら外はジャジャ降りの雨だった。

ずっと地方記者だった私には、安倍氏の取材機会などほとんどなかった。
目の前で見たのは、年に1回、広島で原爆の日に開かれる平和記念式典。

そして2016年、オバマ米大統領(当時)が戦後初めてアメリカ大統領として広島にきた時。その年の暮れ、真珠湾を訪れたとき。

「兵士たち」「勇者」という言葉が何度も繰り返された真珠湾でのスピーチで、真珠湾攻撃のその日から苦難の日々を歩まされた日系人たちへ向けた言葉がなかったことが、とても残念だった。というか怒りが湧いた。戦争というものを、日本の政治家としてどういう総括しているんだろう、と。そして、彼のいう「和解」という言葉に強烈な違和感を抱いた。2016年に7カ月間かけて行われた政治ショー。広島・長崎と真珠湾を足して2で割ってゼロ、みたいな和解はおかしくないか、と。

わたしはきっと「こんな人たち」かもしれないけれど、
明日も明後日も、今まで通り言葉を発していこうと思う。
おかしいことはおかしい、と言い続けようと思う。

そして、一人の市民として、自分が持っている権利をちゃんと行使するために、日曜日には投票に行こう。子どもたちが大人になったときに、暴力や権力の横暴でねじ伏せられるような社会にしないように、大人の責任として投票をしてこよう。
立憲主義をまっとうする政治家を選ぼう。

元首相が選挙期間中に銃弾に倒れるという、民主主義への冒涜を目の当たりにした日、目の前の混乱をなんとか消化しながら、憲法記念日に殺された先輩のことも思いながら、考えたこと。

民主主義をないがしろにしているのは誰か。 
対話と議論をさぼっているのは誰か。

「明日も喋ろう。弔旗が風に鳴るように」

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