見出し画像

韓国の児童虐待事件を描いた『幼い依頼人』を鑑賞。子どもを「大人はみんな同じ」と絶望させてはいけない。

児童虐待事件を描いた映画を観ることが多い。昨日は、韓国で起こった「漆谷(チルゴク)継母児童虐待死亡事件」をもとに製作された『幼い依頼人』(2019年)をNetflixで観た。

10歳の少女が7歳の弟を殴り殺したと告白。しかし、真実はそれとはかけ離れており、継母が少女に「そういう設定にするように」と命令し、コントロールしていた。少女と縁ができていた弁護士が彼女を救い、事件の全貌を明らかにするため奔走する——。

あらすじは、こんな感じ。詳しくは公式サイトを参照してほしいし、もっというと、作品を鑑賞してほしい。

韓国では、2001年には約4000件だった虐待事件件数が、2017年頃には10倍近くにまで増えたという。9割が親による虐待だ。

***

日本でも、児童虐待事件をテーマにした作品はいくつも発表されている。

たとえば、『子宮に沈める』(2013年)、『きみはいい子』(2015年)は、2010年に起きた大阪2児放置死事件をもとに製作されたもの。どちらも、観賞後にひどい倦怠感をおぼえるくらい、重くてつらい。もちろん、亡くなった子どもたちが最もしんどいのだけれど。

昨年は『ひとくず』(2020年)が公開された。育児放棄という類の児童虐待を描いている。

2020年3月には警視庁が、児童虐待事件件数が前年より4割増えたと発表。2021年8月には厚生労働省が、2020年度に全国の児童相談所が対応した児童虐待相談件数が20万5029件だったと発表。うち5割は、通報を受けた警察からの連絡で、内訳として増えているという。

ちなみに厚労省は、児童虐待相談件数の増加について「感染状況との関連性は見られない」と言っている。コロナ自粛に伴い、親子が一つ屋根の下で過ごす時間が不自然に長くなる非日常は、互いのストレスを増やし何らかの影響をもたらしている、と考える方が自然だが……。

***

児童虐待は膨大にある社会問題のひとつ。子なしのバツ1で、妊娠・出産の予定もない私がなぜ、児童虐待というテーマに長い間興味を持っているのか——。ベースは育った環境にある。

18歳まで、父と母、弟、妹の家族5人で生活していた。母は怒りっぽくて怖い人だった(今は以前より温厚になっている、と付け加えておく)。

ものすごい剣幕で怒鳴られたり、ピアノの練習時に手を叩かれたり、おしりを(服の上から)ぶたれたりしたことは覚えている。

でも、頭を含め、顔まわりは絶対に叩かない人だった。周りにも「(子どもの)頭を叩くのは許さん」と言っていた。「頭を叩いたらバカになる」という彼女なりの理論があった。

クラスの男子から怪我をさせられたときは、学校まで文句を言いにいくような人でもあった。相手方の親にも「娘になんてことしてくれたんだ」と怒りを伝える人。モンスターペアレント? いや、子どもを守ろうとする毅然とした態度で、けっこうなことだ。

我が子に対してひどく怒ったときは、手の甲かおしりを平手打ちするくらい。これを身体的虐待と見る人もいれば、そうでない人もいるだろう。何を暴力かと捉えるかは人それぞれだ。

母も未熟だった。必死で母の役割を担ってくれていた。だから当時、子ども心に傷つく言葉や呪いの言葉をかけられたことはあるけれど、虐待を受けたことは一度もない。

振り返れば、いろいろな仕事をしながら、栄養バランスを考えた食事を毎日作り、数々の習い事や塾へ送迎し、よく3人とも大学まで行かせてくれたなあと感心し、感謝である。長年「自分の時間」なんてなかっただろう。私なんて自分ひとりの人生で精一杯なのに。

そんなわけで、総合的には大事に育ててもらった。これは「運」なのか。自分を愛し、守ってくれる親のもとに生まれ落ちるのは、運がいいということなのか。

***

映画『幼い依頼人』にも、「運のいい子どもと運の悪い子どもがいる」という話が出てくる。「継母から虐待され続けてきたダビン姉弟は、運の悪い子どもである。だから仕方ない」——主人公・ジョンヨプが勤める弁護士事務所のボス弁はそんなことを言い放つのだ。

切り捨てていいのか? 多くの人はここで「そんなわけない」となるだろう。私もそのひとりで、「それは運命だから変えられない」で片づけたくはない。

子どもは、いや、子どもに限らず、人は温かみのある環境で生きていくのが自然だ。特に、ひとりでは生きられない子どもたちは、経済的に自立するまでは親の庇護のもと、安全な状態で育つことこそが自然。

幸いにも、自分はそんな環境で生きてこられたからこそ、自分とは違う環境に身を置いている子どもたちを痛ましく感じるし、助け出したい。あなたが本来過ごす環境はそこじゃない、と。

5年ほど前、児童相談所に相談の電話をしたことがある。近所で子どもが不自然な泣き声を長い時間上げ続けていて、「なんかおかしいな」と感じたときのこと。

周りはマンションだらけで、場所の特定は難しかったけれど、声が聞こえてくるマンションや階数のおおよその情報を電話口で説明した。

間違っていたらその親には申し訳ないが、もし虐待が原因で子どもが泣いていたとしたら、周りが行動するしかない。そう考えて緊張しながら話をしたのを覚えている。

たとえ、児童相談所に相談をしたとしても、職員に捜査権はないので、親から拒否されれば部屋に立ち入ることもできず、虐待の証拠を掴むことすらできない、という高い壁があるのは知っていた。それでも、できることをしたかった。

***

子どもを持ったこともなければ、育児をしたこともない、自分ひとりの面倒しか見ていない私は、育児について語ってはいけない存在であるとわかっている。

ただ、これだけは言える。子どもの笑顔を奪うようなことをしてはいけない、と。

『幼い依頼人』で弟を撲殺した容疑をかけられていた少女・ダビンは、「大人はみんな同じ。私たちのことなんてどうでもいい、と思ってる。誰も助けてくれなかった」といった趣旨のことを話し、心を閉ざしていた。子どもにそんな絶望を感じさせるなんて悲しすぎる。

子どもを持たない人生を歩んでいく私は、お節介と思われてもいいので、「あなたたちは私の知らない子だけど、“どうでもいい子”なんかじゃない」と介入していきたい。

赤の他人だから言えることもあるし、行動できることもあると信じている。見て見ぬふりをすることだけはしたくない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?