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有楽町の男

 今夜は旨い串揚げを食べるのに全力を尽くす。そのために昼食はコンビニで調達した野菜サラダとサラダチキン、ゆで卵だけにし、炭水化物を抜いて備えた。
「糖質制限でも始めたの?」
 席で地味な食事を摂っていると、隣席の先輩が不思議そうな顔で尋ねてくる。炭水化物大好きを公言し、実際に気にせず摂取している私が、炭水化物をカットしている姿は目立つのだろう。
「私がそんなの始めるわけないじゃないですかぁ。無理、無理。今日だけですよ。夜大食いする予定あるんで」
 だよねぇ、みっちゃんほど炭水化物好きな人いないもんね、と先輩は笑い、同僚と外ランチへ出ていった。
 今年で27歳。そろそろ太りやすくなってきたから、多少コントロールしなければと、悪あがきをしているだけなんです、先輩。

 18時半に有楽町駅に着いた。2010年代後半から出会いのメッカと化したコリドー街方面へ歩く。ガード下に軒を連ねる居酒屋群の向かいに「我楽路」はある。創業40年を超える老舗の1階には、古めかしい食品サンプルが飾られ、時の流れの重みを感じずにはいられなかった。狭い階段を上っていく。
 調理場を囲むコの字型のカウンターは8割方埋まっている。一番奥に座ったOが手を振っている。
「みっちゃん、元気そうやね」
「Oも変わらんね」
 関西弁を喋るOの前では、いつもは標準語の自分も、自然とつられてしまう。10年近く東京に住んでいるのに、揺り戻される感覚がある。
 日本酒で乾杯すると、早速コースがスタートする。芝エビのしそ巻きに牛肉、かに肉のキス巻き、しいたけ、アスパラ……と、一串食べると一息つく間もなく、次の串がすぐに出てくる。止まらない。でも、大丈夫。お腹は空かせてきたから。

 最後に会ったのは4年前だった。医療品メーカーに営業職として勤めるOは当時、名古屋支社で働いていた。仕事で名古屋に行く用事ができたとき、Oに久しぶりに飲まないかと連絡すると即返信が来て、その晩の食事を共にしたのだった。
 日本酒を3銘柄くらい飲んだ後、Oの目に闇を覗いた気がした。お願い、私の闇もあんたに見てほしい――。
 2軒目に入ったバルはカウンター席だったから、グラス同士をなんとなく近づけた後、Oとの物理的距離も縮めてみた。
 その夜、ふたりは共犯関係にあった。駅前のシティホテルで初めて体を重ねたとき、Oの優しく、壊れ物を扱うような丁寧なセックスに泣いた。男の独りよがりさや求めていないレヴェルの荒々しさを一切感じさせないセックスが初めてで、再びOを求めたくなる自分を制御しようとした。酔いなんか一瞬で醒めてしまう、とろけるようなセックス。魔法をかけられた気分だった。
 朝は前夜に何もなかったかのようにおはようと言い合った。名古屋駅の新幹線口まで送り届けてくれたOは、はねた髪の毛を片手で触りながら、「みっちゃん、気ぃつけて帰りや」と笑って手を振った。

 4年ぶり、か。どちらかと言うと細身ながら、意外と食欲旺盛なOの横顔をちらりと見る。色白で酒に弱いOはすぐに顔が赤くなる。頬骨付近にニキビがひとつだけできているのを見つけて、中学でOと出会った日のことを思い出した。ニキビが多い子やなぁ、気にしてんやろな、と気の毒に思ったのだった。あのときより肌、きれいになったね。ふたりとも大人になったんだ、と実感した。
「うまいな、ここ。みっちゃん店選びのセンスええわぁ。俺、こういう昔ながらの店のほうが落ち着くんよ」
「店選びスキルな、だいぶ磨かれたわ。誰連れてっても喜ぶ店リスト、作ってるから」

 あのとき、罪悪感はなかった。一晩のセックスでOに執着する気持ちが生まれているのに気づいていたけれど、それを無理やりにでも捨てたら、「なかったこと」にできると信じていた。
 Oには大学時代から交際している彼女がいる。当時も彼女と付き合っていた。基本的には一途で優しいOだから、今も同じ相手がパートナーなのだろう。
「何串くらい食べたんやろ」
 ちょうど20本ずつ食べたことがわかったけれど、まだ「ストップ」と伝える気にはならなかった。この店は、客がスタッフに意思表示をするまで、串が提供され続けるシステムだ。
 Oに「まだ食べれる?」と確認した後、話題を変えた。
「恋愛も変わりない?」
 別れた、という言葉を期待せずに聞く。
「うん。前話した子と今も付き合ってる」
 お猪口に軽く口をつけてOは続ける。
「たぶん、結婚するわ」
 驚きはなかった。とてつもなく自然なことだ。
「そうなん。おめでとう」
「いや、まだプロポーズしてへんし、どうなるかわからんよ。俺がそう思っとるだけかもしらん」
 茶化し気味に言う。結局30串くらい食べてギブアップした。

 狭いから先に出とくわとOに割り勘分を預け、細い階段を下って外へ出る。周囲の焼鳥屋から煙がモクモクと立ち上るのを見つめていた。降りてきたOが言う。
「今日楽しいわ。みっちゃんが時間大丈夫なら、二次会せえへん? 俺は最終の新幹線乗る予定やったけど、最悪始発で帰れば間に合うから」
 Oは今、京都に住んでいる。
「わかった。飲みいこか。でも、O、酒強くないよな?」
「まあ、そやね」
「粋なカフェ、連れてったげるわ」
 数寄屋橋交差点方面へ歩く。目的地はGINZA SIX。出張で3〜4カ月に一度は東京へ来るOだが、あまり観光する暇はなく、新しくできたスポットはあまり知らないらしい。
「俺、そもそも銀座自体、じっくり歩いたことないわ」
 目を輝かせている。
「みっちゃん、甘えてもええ?」
 突然のフリに驚いて、どう答えるのが適当なのか、必死に頭を回転させようとした。ああ、でも、わからん。
「あはは! なんかおもろいなぁ、この状況。うん、おもろい。甘えてええよ」
 可愛い台詞なんか、恥ずかしくて言えない。私のことを13歳のときから知っているOに、媚びたような一面を見せるなんて嫌だ。
 銀座四丁目の交差点を渡る前に、Oがそっと手をつないできた。
「東京、人たくさんおるし、はぐれるで」
 もっともらしいことを言って微笑む。繊細な動きをするOの細長い指が懐かしい。4年ぶりに指を絡めていることに、気持ちがどうしても昂ぶってしまう。
 6階にあるSTARBUCKS RESERVE BARに着くまで手を離さずにいた。
「ここくらいは奢らせて。好きなもん飲みや」
 注文をOに任せ、奥のふたりがけソファ席を確保しておく。
 
 ごく自然な形で私の隣に腰を下ろしたOは、甘くてほのかに苦みのあるナイトロ コールドブリュー フロートを味わいながら、
「俺が思うに、みっちゃんは不幸な恋愛ばっかしてる感じ。さっきの店で聞いた話も、なんでそんなアホな男にこだわってたん? って思ったもん。みっちゃんなら、もっとええ男おるはずやで。俺みたいに。俺ら、去年くらいに出会ってたら良かったな」
 最後の方は自画自賛する自分に笑うOにつられて、私も笑った。
「ほんま、そやな。って、あんた、そんなキャラやったっけ?」
 もし、私たちが10代のころじゃなくて、もし最近出会っていたら、運命が変わっていたかも知れない。でも、3年間同じ学校で過ごした後、いくばくかの空白期間があり、そして近年の再会があって、今に至ってる。これこそが奇跡じゃない? これでいい。
「もっと近づきたい」
 甘えキャラなOは、男三人兄弟の末っ子だ。体をぴとっと寄せてくる。Oの体温が服越しに伝わってくる。
「甘えまくりやな、今日」
 私がOの彼女だったら嫌だな。そう思いながらもOのノリに合わせる。すべてを受け止めたかった。進んで受け止めようとしていた。
 Oのことは大好きだ。男としてじゃなく、人として。恋愛感情はない。でも、好きは好き。めっちゃ好き。だから、彼がそうしたいのなら、ある程度まで合わせられる。
 私は自分から甘えない。甘え下手な長女だからか、甘えることができない。誰かと付き合っても、「そういうキャラじゃないから」「甘えるのとか、無理なんよ」と、甘える行為を封印してきた。でも、4年前のあの日、Oに合わせているうちに、自分も甘えるフリをするのが楽しくなっていた。でも、もう4年も経ったから、今はちょっと再現できそうにない。
「みっちゃんは意外と猫的な部分がある。抱っこしたかと思ったら、すっと腕の隙間から逃げてく感じがするで」
 1回戦を終えておとなしく腕枕をされる私に、Oはそんなことを言ったのだった。Oは私に別の世界を開いて見せてくれた。

 GINZA SIXを出ると、Oは自然な流れで手をつないでくる。温かい手を長いこと握っていたかったけれど、立ち止まった瞬間、思いきって口にした。
「なあ、お願いがあるんやけど。軽く抱き締めてくれん?」
「俺も今言おうと思ってた。キスしてもええ? って」
「ハハハ、おかしいな!」
 ふたりでアホみたいに笑い転げた。
 銀座の路地裏でOは私を抱き締める。割れ物を扱うかのように、というよりも、手抜きを感じさせない、ほどよい力のこもったハグ。愛が伝わる抱きしめ方。負けずにギュッとOを抱く。
「落ち込んだとき、信用している男友達にギュッとしてもらって、元気をもらったんだ」
 そんな話を女友達に聞いてから、チャンスがあればOにハグしてもらおうと決めていた。「彼女がいるからダメかな?」なんて、訊く必要はないとわかっていた。絶対に拒否されない自信があった。
 背中に手を回している時間は10秒のようにも、5分のようにも感じられた。あったかい。前よりもがっちりした。キスはバニラの味がする。舌が熱を帯びている。
「みっちゃん、今夜一緒に過ごさん?」
 ゆっくり体を離して私の目を見つめながら、今の雰囲気に最も合う言葉を選んだOに、ふふふと笑いながら即答する。
「あかんよ」
 ちゃんと断れた。成長したわ、私。あんたのことが好き。好きだからこそ、失いたくない。今の関係がなくなるのが嫌なんよ。
「ありがと。そう思ってくれてるの、嬉しい」
 Oは私の説明をまっすぐ解釈したようだった。何もなかったかのように大通りまで出て、タクシーが捕まるまで手をつないでいた。
「俺ら、自分たちが10年後にチューとかするなんて、初めて出会ったときは想像もしとらんかったよな」
「人生何があるかわからんから。ハハハ」
 Oがタクシーで東京駅まで向かうのを見送った。丁寧に手を振り続けるOの姿がだんだん小さくなっていく。

 惨めで愚かしい恋愛を幾度となく繰り返してきた。自分からくだらない行為を仕掛けては、KO負けを重ねていた大学時代。社会人になってからは、そこまでではないものの、アホみたいな傷つき方をすることもある。Oはそんな私の恥部をすべて知ってくれている。
 泣きついたときにいつも「なんで?」ってくらい優しいO。他の人が思いつかないような例えを用いたり、自分が同じ立場だったら、などと深く考えてくれたりした。
 O以上に私の汚物を見て、さらに見捨てなかった男なんていない。それでもOはなぜかいつも受け入れてくれる。ふわりと受け止めてくれる、滅多に出会わない人物。
 でも、好きだからといって、その先に進むことは許されない。そういう存在だ。だから、今のままでいいし、今のままがいい。失うことを想像したくないし、想像できない。考えたくないし、考えられない。
 壊さないように、崩れないように、そっと保ち続ける。私たちが築いてきたものは、頑強なようでいて、実は脆いものだと思う。組み立てるのは相応の時間がかかるけれど、破壊するのは一瞬で済む。そんなこと、砂場で遊んでいた子どもの頃から知っていたことなのに。大人になると、それを忘れていることがあって、時々ぞっとする。

 銀座線に乗ってスマホを開くと、OからLINEが来ていた。
「みっちゃん、今日はありがとな。みっちゃんはエンタテイナーやで。めっちゃおもろい。自信持ちや。くだらん男、相手してる暇なんかないで。じゃ、またな」
 ありがと、O。今日あんたの誘い、我慢して良かった。また必ず会おな。

【作中に登場した店】

我楽路
https://retty.me/area/PRE13/ARE2/SUB202/100000052496/
STARBUCKS RESERVE BAR
https://retty.me/area/PRE13/ARE2/SUB201/100001335527/

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