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改めて、表現の自由を考える

先日、日本(大日本帝国→日本国)で最も長く首相を務めた安倍晋三氏が銃弾に倒れ亡くなりました
現在は犯行の動機が解明されつつあり、犯人の母親に翻弄された悲惨な生い立ちがクローズアップされ、宗教と政治の関わりや宗教二世の葛藤に話題が変わっていますが、
犯行当初は、安倍氏の政治思想への反発に基づいた犯行ではないかと憶測が流れ、民主主義制度のシステムの前提となる選挙という機会に政治家の言論を文字通り封殺することとなり、言論の自由を揺るがすテロ行為であるとの声明が各所から発出されました
(実際には安倍氏の思想・言論を封殺することを目的とするものではなく、関係の深い宗教団体に対する私怨が原因と語られています)

また今回の参院選では各政党から、表現の自由をメイントピックとして掲げる候補者が多数擁立され、2019年の参院選で山田太郎議員が獲得した53万票の行方も注目を集めました

私自身も今回の参院選で大田区のおぎの区議( @ogino_otaku )の呼びかけに応じて、表現の自由を掲げる候補者のオンライン討論会の運営に関わりましたが、
私とは政治信条の異なる政党の方も含め、この国の民主主義や個人の幸福追求を体現する"表現の自由"という課題に真摯に向き合われている候補者の存在を知ることができました

こうした社会的な流れもある中で、今回AFEE(エンターテイメント表現の自由の会)の方からの紹介もあり、改めて私自身も個人の自由を第一に尊重する立場から 表現の自由に対する"規制"に対して反対する立場を明確にする趣旨で文章をまとめました
※表現の自由にも限界(そもそも無限のものではなく他の人権とのバランスで定められた範囲)があるとの立場ですが、定められた範囲の中には規制をかけられないという意味です

▼憲法守れというけれど

私自身は大学で憲法学のゼミに所属し、憲法が国家の枠組みを形作り、私たち政治家や公務員といった公権力に歯止めをかけるためのものであるという認識を持ちますが、
国民主権・基本的人権の尊重・平和主義と小学校から教科書で教えられる日本国憲法において、
最も尊重すべきは
・13条(後段):幸福追求権 であり、
その幸福追求権を支える大きな役割を果たしているのが、19条:思想・良心の自由(→心の中に留まる限りは国家権力が罰する・禁止することはできない)であると考えています

世界の歴史を振り返るだけでなく、例えばお隣 中国でも宗教に対する弾圧は恒久的に続いており、
また同じく中国では2021年に入り、芸能活動の規制が厳しくなり、アイドル活動をはじめとする中国 国家が"低俗" "下品"と認定した芸能活動やオンラインゲームが規制をされ、
独裁を敷く共産党の都合に合わない文化や思想の流通を制限し、個人の思想や嗜好までも"個人の自由"ではなく国が指定することで国民を管理し、自分の好きなことを自分で選ぶという民主主義の萌芽を摘んでいます

対する日本は1945年以前に 多くの人の内心に介入、また無関係な人までも思想犯として投獄し 死に追いやった反省を込めて、世界中の憲法を見渡しても珍しく"思想・良心"を保障する条文を明文化し、内心の自由と個人の尊厳を絶対的に尊重することを明確にしています
(30年給料は上がらないけれど、この点は現代の日本に生まれて本当によかった!)

▼表現の自由の重要性

前述した"思想・良心の自由"が心の"中"の話であれば、それと対になる心の中から"外"に発信する際の自由を保障している制度が21条:表現の自由です

内心の自由は基本的には個人の頭の中で完結し、具体的な情報や物、行動を伴わないため他人の権利と衝突することがないのに対して、
表現の自由は、音や文字、絵、形、行動、現代においては動画やCGといった様々な形で表現されることが、時として他人の権利と衝突するケースが生じることもあるため、内心の自由とは異なる形で保障することが必要になります

また心の中にある(感じる・思う・考える)だけでは他者を巻き込むことはできず、発信することで初めて外部から見える形となり個人から社会へ価値を生み出すことができるようになるため、
心の中にある状態だけでなく、外に発出された後も保障がされなければ、自由な議論が巻き起こり話し合いによって社会がアップデートすることはありません

一般的に表現の自由には、
個人の幸福追求のための価値(自由主義の価値)と、
議論による社会全体の発展に資する価値(民主主義の価値)の両面があるとされますが、
たとえ他の人権が規制をされても立法によって後からでも回復できることと比較すると、表現の自由に規制がかかると議論を積み重ねて立法をするというプロセスそのものが正常に機能しなくなることから、
特に民主主義を保障するためにも極めて重要な権利と位置付けられてきました

▼表現の自由 vs 他の権利

先程も述べたように、
音や文字、絵、形、行動、現代においては動画やCGといった様々な形で表現されることで、時として他人の権利と衝突するケースも生じます

代表例を列挙すると
・個人の名誉やプライバシー:他者の名誉・プライバシーとの衝突
・ヘイトスピーチ:個人の尊重や、平等権(平等に扱われる=差別されない権利)との衝突
・性表現:刑法175条 わいせつ物頒布等罪との衝突
・営利表現:消費者側の知る権利(表現の自由の発展)との衝突
が、他の権利と衝突するケースとして挙げられます

これらの互いの権利が衝突するケースは、古くからある問題については既に判例の積み重ねで、
また近年議論の対象となっているものについても、特に保障の必要性が高い民主主義的価値に資するものかどうかに加え、対立する人権や言論を戦わせる表現の自由市場の中で調整が可能な性質なのかも鑑みて、どこからを表現の自由を超えた保障に値しない"ふさわしくないもの"とすべきかが議論となっています

▼表現の自由 vs 見たくない権利

事件等と関わりのない個人情報を公開することや、"自由な言論"というにはあまりに一方的・攻撃的であり言論による反論が身に危険を及ぼすかもしれないヘイトスピーチを表現の自由の枠外することは、重大な人権保護の必要性もあり、規制の賛否が対立する機会は少なく感じていますが、
特に性を扱う表現に関しての対立は大きいと感じています

近年、特にジェンダーロール(性別役割分業)や女性を扱う広告やキャンペーンが炎上するケースが多く、
この一年でも千葉県警がご当地VTuberとコラボした啓発への議員連盟による抗議文(とその後のコラボの取下げ)や、日本経済新聞の紙面に高校生の女性を描写した漫画の主人公の掲載で大きく論争が巻き起こりました

また、他にも固定的な性別役割分業を助長するCMや、若い女性タレントによる性的描写を連想させるCM・自治体のPR動画も抗議や論争の対象になりました

通常のコンテンツよりも広告・キャンペーンが近年話題になっているのは、小説にしても絵・マンガにしても映像作品やゲームにしても、基本的には好きな人が見たくて見るものであり、
一方で広告は不特定多数の目に触れることこそが目的であり、不快に感じる人の目にも期せずして映り込んでしまうため、
その表現を好まない人の嫌悪感に触れる機会が必然的に多いことが推測されます

企業の広告については、
①営利表現として経済的自由と位置付けて規制をある程度容認する立場
②営利表現といえど意見広告等と結び付くケースもあり、あくまで表現の自由として保障すべきとする立場

の両者が存在することも事実ですが、
営利・非営利の区別が難しくなっている時代だからこそ、
どこまでを保障して、どこからを保障外とするかの線引をすることも難しく、
広告だからといって営利目的として表現の自由が及ばないとすることは難しいと考えます

仮に、企業の広告が表現の自由の範囲外だとすると経済的自由権の範囲内での保障に留まり、仮に法律や行政によるガイドラインで表現を規制することも合法となります
(タバコやアルコール類といった健康に害を及ぼす商品や美容外科・貸金業といった分野については実際に広告手法に制限がかけられています)

一方、あくまで表現の自由の範囲内であると考えると裁量は各企業に委ねられることとなりますし、
実際には現実的な落とし所として、各業界内で統一した自主規制を設けたり、各メディア側で自社媒体にふさわしいか(テレビ・Webサイト・電車・看板(住宅街なのか歌舞伎町なのか秋葉原なのか)で異なる)の審査基準があり
何もフィルターもなく、各企業の思惑だけで情報が流通している訳ではなく、既に(良くも悪くも)自主的に不特定多数への配慮は行なわれているのが実態です

翻って過去を遡れば、20年前(00年代前半)までは、
街で目にしたビールの広告は、アルコール飲料とは直接関係のない水着の女性アイドルがビールジョッキを手に持っているだけの写真でしたが、
それが今では男性タレントが中心となり実際にビールを食事と一緒に楽しんでいる描写となっており、
時代や人々の感覚と共に目にする表現も変化しています

逆に言えば、時代の変化に対応している企業が生き残っているのであり、
広告表現に限らず、社会からの反発を招く企業や商品は自由主義市場の中で自然に淘汰されますので、
時間が経てば市場の中で自動的に、商品も表現も最新モデルに調整が働きます

もし"私"の嫌いな表現や商品が市場で生き残っているとすれば、それは"私"ではない別の人がターゲットに設定されているか、"私"の感覚が一般的ではないからかもしれません
もちろん"私"は筆者に限らず、主語を全ての人に入れ替えて通用する話です

つまり企業の広告や方針が気に入らない場合は買わない・選ばないという選択もあり、また表現の自由市場の中で(特にデータ改ざんや虚偽表示をはじめ)別の表現で対抗することも可能です
他方、証明が難しい内容や 差別と直ちに断定できない"不快"な表現(水着のポスター・露出の多い絵)の訂正に対象企業が対応するかどうかは、各企業の損得勘定による判断となりますし、
自分が正義だと信じている主張も方法を間違えると、名誉毀損罪や、偽計業務妨害罪・威力業務妨害罪になる場合もあります

他方で 行政機関の用いる表現については、
表現の自由の趣旨に立ち返ると、あくまでも個人や民間団体(publicではなくprivate)の言論を保障するためのものであり、
行政については民間と異なりそもそも自由権が保障される対象ではなく、企業のように損得勘定や市場による淘汰の中で着地点が見出されることもないため表現の自由の文脈ではなく、
必要な人に情報を届ける手法として適切な表現を用いるために、様々な属性を持つ人が判断過程に携わり 社会の変化に合わせたラインの引き直しを続けるしかないと考えています

▼本当に「不快な表現は規制すべき!」で私たちは守られるのか

ここまで、不快な表現が目に入った場合(いわゆる"見たくない権利")について、経済の自由市場、そして表現の自由市場の中で解決をするしかないと論じてきたつもりですが、
逆に裁判で争えるかを考えると、"見たくない権利"に具体的に対応する人権は存在しませんし(明記されていない権利の根拠を幸福追求権に見出すことはありますが)、
性表現について刑法175条:わいせつ物頒布等罪を根拠に持ち出そうと思っても、憲法の規定する人権を法律で制限しようとすることもできません

※下記の平 弁護士の連記されたツイートが"見たくない権利"について完結にまとまっています

その上で、最後に不快な表現を規制することで私たちの生活が"守られる"のか考えますが、
長くなってしまったので詳細は次回に改めて投稿します


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