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本当に「不快な表現は規制すべき!」で私たちは守られるのか

前回は、不快な表現が目に入った場合(いわゆる"見たくない権利"の確保)について、経済の自由市場、そして表現の自由市場の中で解決をするしかないと論じてきたつもりですが、
逆に裁判で争えるかを考えると、"見たくない権利"に具体的に対応する人権は存在しませんし(明記されていない権利の根拠を幸福追求権に見出すことはありますが)、
性表現について刑法175条:わいせつ物頒布等罪を根拠に持ち出そうと思っても、憲法の規定する人権を法律で制限することは矛盾しています

その上で、最後に不快な表現を規制することで私たちの生活が"守られる"のか考えます

私自身はあらゆる選択が原則 個人の自由に委ねられることを願っており、ステレオタイプではなく個人にフォーカスする意味ではポリティカル・コレクトネスの精神には賛同しています
また未就学児を育てている身としても、教育や理解が追いついていない段階で子どもの目にグロテスクな描写や性的なコンテンツが飛び込んでくることを最も身近な問題意識として感じています
(先日のニュースで安倍氏への銃撃シーンを繰り返し流していたことにも抵抗感がありました)

ちなみに自分自身の好き嫌いだけで考えると、男が青・女がピンク、男の子は自動車・女の子はお花のような表現は極めてダサいと思いますし、
それを呪いのように子どもの世代に継承しようとする大人も社会も大嫌いです

▼場面によって"不適切な表現"はある(と思う)

全ての表現は(別の表現によって回復不能な侵害をしない限り)自由であるべきというルールはありながらも、
そのルールとは別の次元で、"ふさわしくない"表現はあると考えています

例えば結婚式場では、離婚や死を連想させる表現は避けますし、
以前テレビ番組で【結婚式でコブクロの「永遠にともに」使う人絶滅説】という検証がされたようですが
絶滅とまでは行かずとも(作品に何の罪もありませんが)不穏な連想につながることで避けられる傾向にはあるようで、
この場合は「永遠にともに」は多くの人の感覚では、結婚式という場には不適切になってしまっていると言えるのではないでしょうか

また、過去の政治家の発言でも、
・森喜朗氏「女性の話は長い」

・蓮舫氏「男なら泣くな」

という発言が物議を醸し、
どちらの発言も前後の発言まで聞くと、ヘイトスピーチのように差別を主目的とした趣旨とまでは言えませんが、
"ふさわしくない"発言として、森氏に至ってはオリ・パラ 組織委員会 会長の辞任という社会的な制裁を受けることとなりました

言わずもがなですが、辞任に追い込んだ、問題発言として訂正させたのも、当該発言に対して反論する自由が機能し、表現の自由市場の中で「必要な調整がされた結果」と捉えられるのではないでしょうか


▼不適切にもランクがある

一言でに"不適切"と言っても、もはや表現の自由ではないものから、個人の感じ方の範囲に属するものまでグラデーションがあると考えます

大分すると、
A.明白かつ現在の危険がある表現・回復困難な人権侵害(表現の自由の範囲外)
B.Aには当たらないが、社会的に問題ありとされる表現
C.適法かつ 、社会的には問題ないが気に入らない人がいるケース
と段階が分かれますが、

Aは論論ずるまでもなく すべきでない表現となりますが、
B・Cは議論が分かれます

【B】には、例えばヘイトスピーチとまでは断定できない差別用語、偏見、露骨な性表現が該当しますが、
明らかに問題のある【A】ではないものの 問題を生じさせ かねない、明白でも現在についてでもないが危険の(おそれの)ある表現、人権に抵触するおそれのある表現としてセンシティブに扱われており、
主に自主規制(と一部の法律による規制)で基本的には公的空間では使わないように対処されています

【C】については、例えば冒頭で私の考えを述べたように、男は青・女はピンクといった表現は、社会的に問題ありという合意まではありませんが、
少なくとも私からすれば、少なからず不快な表現ではあります


▼"不適切"な表現は法律で規制すべきか

仮に【C】を認め個人の不快を明確な権利と位置付け、不快に思う人がいる表現まで一律に禁止をすると、
・猫アレルギーの人がいるので猫の絵は禁止
・おじさん(おばさん)はキモいと感じる人がいるので成人男性(女性)の写真は禁止
ということになってしまい、
さすがにそれはあり得ないことは誰もが理解できると思われますが、

【B】については差別を助長する可能性がある、危険性を有している、そして不快であるというもっともらしい理由で、一定の制限が必要ではないかという考え方もあります

実際に刑法175条には わいせつ物頒布等罪が規定されており、他者の人権との衝突によって表現の自由の対象外とするケースではないにもかかわらず、
法律により特定の表現への制限が(表現そのものではなく流通制限ではありますが)かかっています

極めて例外的な規定であり、一般に社会秩序の維持や青少年保護 等が目的とされていますが、本当にそれらが目的であれば一律禁止という最大限の規制ではなく ゾーニングでも対応可能であり、一律の頒布禁止について相当なのか疑われます

また先日も大手古書店が違法なアダルト本を販売したとして書類送検されましたが、
本当にいわゆる"わいせつな表現"の流通を取り締まることが目的であれば、本来は今回のケースのように性器が見えたか見えていないかという極めて細かい点による区別は本来的な趣旨からも外れています

※わいせつの定義は我が国の判例上、
①徒に性欲を興奮又は刺激せしめ
②普通人の正常な性的羞恥心を害し
③善良な性的道義に反するもの
とされていますが、上記の定義を主に性器の描写の有無で判断しているのが現在の日本の運用です

もちろん差別や敢えて誰かを不快にさせることが善い事だとは思いませんが、
不快な思いをする人がいる表現や、差別、危険な創作物、性表現等を一律に禁止することはまるで社会からそれらが一切存在しないかのように扱うこととなり、
アートや作品を通じて社会に問題提起をすることや、
現代に生きる我々が過去の差別について知ることで、過去の過ちから反省をすることもできなくなります

加えて どこまでを芸術性があるのか、教育的価値があるのか、社会的意義を有するのかを誰かが判断すること自体も不適当であり、運用次第でかつての治安維持法のように権力による自由な逮捕が可能となり、
そうであれば自ずと表現の多様性を保護する他なくなります


▼"不適切"な表現は削除・修正すべきか

私自身はディズニー作品が好きですが、日本のスプラッシュ・マウンテンの題材となっている【Song of the South】(邦題:南部の唄)の完全非公開を除けば、
現在は【ピーター・パン】【ダンボ】の冒頭に人種差別 表現への反省と警告を強化することで、原作のまま公開を続けていますが、実写化される際に現代の価値観に合わせて表現や展開をアップデートすることで、かつての表現への反省の反省を示してます

またディズニーというとプリンセス"and they lived happily ever after."(いつまでも幸せに暮らしましたとさ)という物語でお馴染みですが、
ラプンツェルが戦うお姫様だったり、アナとエルサが恋愛や結婚を幸せの主軸として描かれなくなったように、キャラクター像も多様化しており、

日本での"シンデレラ・ストーリー"という言葉が未だに使われるように、社会的な影響力とかつての女性のステレオタイプとしてのイメージの強い【シンデレラ】に至っても、
2000年以降に公開された続編や実写版では より主体性や王子様を選んだ理由が描かれるように、また白人だけのストーリーではなくなり、
カボチャの馬車を出した妖精が主人公となる【Godmothered】(フェアリー・ゴッドマザー)では、もうひとりの主役がシングルマザーの女性となり「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」ではない現実や、異性愛だけでなく、親子愛や同性愛といった従来と異なる愛や幸せを叶える存在として再定義されています

「不適切な表現だ!」という声で、過去の作品や原作を公開停止にしたり、カット・修正している例もありますが、
単に撤回して なかったものとするだけでなく、社会のニーズや新たに発信したい価値観に応じて、今後の創作に活かすという解決策もあるのではないでしょうか


▼キャンセル・カルチャーの影響

「嫌なら買わない選択もできる」と前回の投稿で述べましたが、その一方"キャンセル・カルチャー"(cancel culture)という言葉も昨今 話題になっています

不当な出来事や差別表現に対抗する手段として、(デモなどの)抗議活動を行なうことについては本来 民主主義的な価値の高い表現として保護の対象となる行為であるはずです

その一方で、キャンセルという行為が抗議を超え、相手方の社会的抹殺にまで発展しているケースも散見され、確かにそれは抗議活動の最終到達地点なのかもしれませんが、
そういったケースについてはもはや表現の自由を保護すべき目的を逸脱し、社会に悪い影響として作用していると考えます

①異論を挟めないと、相手方の表現(の自由)が機能しなくなる

表現の自由が極めて重要視されているのは、議論の積み重ねによって社会全体の発展・アップデートを求めるためです

仮に"問題"のある出来事や表現だったとしても、抗議活動に対して再反論できないと 何が問題とされて それに対してどのような改善ができたのか着地点を見出すことはできず、
単に特定人や特定の表現を表舞台から抹消させるだけで、表現の自由を行使した結果 かえって表現を萎縮させることとなります

②犯罪は大衆にキャンセルされるのではなく、法で裁かれる必要がある

言うまでもなく日本は法治国家であり、不法行為や権利侵害対しては法律に沿って問題の仲裁が、違法行為については法律に沿って刑罰という制裁が課されるため、自力救済や報復・私刑は禁止されています

刑罰により課させる制裁は個人の財産・身体・生命の自由を奪うため、厳密なプロセスを踏まれ、類似のケース(判例)とのバランスまで考慮された上で裁判官により判決が下されますが、本来は有罪が確定するまでは無罪としてとして扱われますが、
一度"正義"を振りかざすキャンセル行為の対象となれば、公人の犯罪だけでなく芸能人の不倫やスキャンダルまで対象や事の大小を問わず社会的に立ち直れないほど追い込まれることとなります

また厳密にはキャンセル・カルチャーの文脈ではありませんが、インターネット上での私刑が本来与えられるべき刑罰にまで影響を及ぼし始めていてますが、
世論の燃え上がりを見て罪を重くするのではなく、むしろ社会的制裁を受けたとして罪を軽くする方向に作用してしまっています

③正義を振りかざしているつもりが"魔女狩り"かもしれない

一方的に吊し上げられることで悪人・叩いてもいい人というイメージが付き、それらを否定しなければ自分がおかしい人と見なされるようになりますが、
そもそも本当に社会的に立ち直れないほど糾弾されるような行為や表現だったのか、矛先は特定人や特定の表現で正しかったのか、究極的には今糾弾している発言や行為が事実なのかすら、キャンセル行為に参加している側が分からないケースも存在します

繰り返しとなりますが、抗議活動 自体は極めて重要な役割を担いますが、犯罪は法によって裁かれる必要があり、犯罪とは言えない差別表現や偏見へは一時 社会的に抹殺するよりも、言論をはじめとした表現で対抗すべきであると考えます


▼不快な表現を規制した先は、幸せなのか

自分の家の前の公道を封鎖しているようなアートであれば、移動されなければ具体的に生活がままならなくなり撤去を要求する必要があり、だからこそデモを届出制にする制約は合憲とされていますが、
改めて最後に、気分が悪い・嫌いな表現という理由をもって世の中から排除を求めることで私たちは幸せになれるのか考えます


A.不快な表現も自由の一態様として尊重する
B.不快に思う人が多い表現はこの社会には"不適切"として法律で禁止・規制をする

この問いかけだけであれば「法律や行政のガイドラインをもってして規制するくらいであれば問題はないのでは?」と意見も多いと思われますが、
例えば、前回述べた中国でのコンテンツ規制についても、アイドル文化のせいで男性が中性化している(→男らしくないと軍隊が弱体化する)ことについても規制の理由としても触れられているように、
未だに現代日本で(特にマジョリティーである高齢世代の中で)支持される男らしさや女らしさに沿わない個人の個性を尊重した表現は多くの人にとっては不快と評され、
少子化が加速する中では妊娠や出産が自然発生しない同性愛についての表現は、表現の自由を尊重しないと"不適切"と認定されるおそれがあります

※日本も明治期には同性愛を犯罪として処罰している時代もありましたし、特に個人の自由が保障されないイスラム圏では現在も厳罰の対象となっています

音楽では、かつてはROCKもHIPHOPもEDM(ダンスミュージック)も、不良の文化・不適切なもの、それが現在ではジャンルとして確立し 一つの文化となっており、現代日本音楽のメインストリームとなっています

また漫画でも、成人向けやBLといった"不適切"とされがちなジャンルから頭角を現した漫画家の描いた作品が、有名雑誌での連載やアニメ化、更には映画化され、多くの人がエンターテインメントとして楽しんでいます

スポーツにおいても、かつては社会のマジョリティーの中ではスポーツとしては認められてこなかったスノーボートやスケートボード、サーフィン、ブレイキン(ブレイクダンス)がオリンピック種目に加えられており、
新たな文化は常にメインストリームではないところから出現し、新陳代謝を繰り返していきます

確かに不快な表現を規制することで、自分が不快なものが一つ排除できますが、
残るのは健全で快適な世の中というよりは、今度は自分が不適切と認定される、好きなものを好きとは言えない世の中、
更には言論の自由が保障されず時の政権の批判もできない不自由な世の中ではないでしょうか

グロテスクな表現を、性的な表現を規制することで、社会の秩序が図れるとの考えも根強いですが、
防止すべきは、犯罪そのものであり、目の前の犯罪抑止や被害の最小化をする効果がない表現や創作物の規制よりも先に、やるべき対策は山積しているのではないでしょうか

長くなりましたが、個々人の自由を尊重する立場としても、
人や表現を"不適切"として排除しない社会こそが、男がピンクの服でも笑われない社会、好きなものを好きと堂々と言える多様性のある社会であると信じています

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