自殺企図をしたら、うつ病の私から希死念慮がなくなった話
うつ病の症状のひとつに、希死念慮(死にたいと考える気持ち)があります。筆者も例に洩れず、わけもなく「死んでしまいたい」という考えが頭から離れずにいました。
ところが、ある日のできごとを境に、希死念慮がぱったりと消えてしまったのです。それは苦しかったからとか、痛い目をみたからではなく、自分が本当は死にたくないのだと気付いたからでした。
今回はそのことをお話しします。
はじめに:希死念慮が生まれる思考回路
うつ病は、自殺の原因になるという意味で、人の命にかかわる病気です。多くの患者さんは希死念慮を持ち、自殺未遂を繰り返すかたもいます。それにしても、どうして「死にたい」という極端な考えを思いつくのでしょうか。
うつ病は気持ちの問題ではなく、脳の病気です。脳が疲れ切ってしまって、正常にはたらかなくなった状態です。
もちろん、発症の背景には精神的ストレスがあります。しかし、気の持ちようで解決できる段階を過ぎてしまい、脳にダメージが生じてしまった状態がうつ病なのです。
希死念慮は、そんな疲れ切った脳から生み出されます。普段なら多様な思考回路を持っているはずなのに、疲れた脳は「死ぬしか選択肢がない」というワンパターンな考えしかできなくなってしまうのです。
ある日の夕方、首を吊ろうと思い立つ
いまから4か月ほど前のある日のことです。それまで大学の課題や試験に追われており、それらをなんとか乗り切って落ち着いたころでした。
実は、医学部の課題や試験はそれほど難しくありません。むしろ私には、他人と協力してレポートを作ることや、大人数の集まる試験会場で1時間も過ごすことのほうが大変でした。
差し迫るものがなくなり、ほっとしたのでしょうか。ふと「楽になりたい」という思いが頭に浮かびました。
医学的な興味から、命を絶つなら首吊りと決めていました。しかし、日本家屋の梁か鴨居くらいは高さがないと、足が床について首の締まりが緩くなり、苦しくなってしまいます。
ちょうどいいことに、同居していた友人の懸垂マシンがありました。片手懸垂の補助に使うゴムチューブを巻きつけ、肘置きに登りました。友人は買い物に出かけており、外は夕日が落ちて暗くなっていくところでした。
死にたかったのではなく、見つけてほしかった
ゴムチューブに首を通して、死ぬ前に思い残すことがないかどうか考えてみます。ここ数か月は将来への希望を失っており、生きていても楽しくありませんでした。だから、いつ死んでも後悔しない自信がありました。ただ、猫を飼ってみたかったな、とは思いました。
そうやって、数分が経過しました。
私はわざと時間をつぶしているようでした。
何を期待していたのでしょう。勇気が出る瞬間を待っていた?それとも、遺体の後始末を心配していたのでしょうか?
そして、気付いてしまいました。
出かけた友人が帰宅する直前を狙い、首を吊ろうとしていたことに。
私は死にたいわけではなかったのです。自分が首を吊った状態を誰かに見つけてほしかっただけなのだと。孤独がつらくて、誰かに迷惑をかけることで、人とのつながりを感じようとしていたのです。
生きているのはつらく、死んだら楽になったでしょう。でも、私の得たかったものは、命を懸けるほど入手困難なものではありませんでした。それに、信用できる数名の友人は現世にいるのに、そこから離れるのは惜しいと思ったのです。
その後
懸垂タワーから降り、のそのそと布団にもぐって友人の帰りを待ちました。友人がここに戻ってこなかったらどうしよう、という不安のせいで、数分間がとても長く思えました。まあ、そこは友人の自宅でしたし、心配しなくても帰宅したでしょうけどね。
のちの友人の話では、懸垂タワーに残されたゴムチューブを一目見て、不在のあいだに何が起こったか瞬時に理解したそうです。
希死念慮に苦しむ人へ
これまで1年以上も希死念慮と付き合ってきて、一生この気持ちと一緒なのだと諦めつつありました。ところが、とある日のたったひとつの事件をきっかけに、自死という選択肢がなくなってしまいました。
ただし、ほかの人がこれをマネしても、希死念慮がなくなることはないと思います。なぜなら、たとえ家族に懇願されても消えないほど、希死念慮はしぶといものだからです。
しかし、なんらかのできごとを機に、死にたい気持ちが消えることはありえます。その時を気長に待ちつつ、いまは脳を休めることにしましょう。少なくとも、前向きな考えを思いつく程度には、脳が元気じゃないといけないですからね。
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