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山にむちゅう(4)

 由真に抱きつかれながら、祐介はオフィスに戻った。
 祐介は人前で余りべたべたするのは好かない。祐介は露骨に嫌な表情を見せてやると、由真は目を逸らした。どうやら、この女は見せ付けるつもりだ。
 祐介にとって、経緯が経緯なだけに絶妙に由真に対して強く出ることができなかった。
 他の女が苛立ったり、悲しそうな顔をする。それを見て嫉妬する男もいれば、祐介のような手合いが嫌いなモラリストもいる。無用に敵を作ってしまう行為はなるべくしたくはない。
 祐介はオフィスに戻るまでに腕にすがりついてくるこの引っ付き虫を引きはがそうとしたが、失敗した。どうにも彼女の意志は堅いらしかった。軟派な祐介程度の意志では振りほどくことは結局できなかった。
 案の定オフィスに着くと、一斉に視線を浴びた。
「ただいま、戻りましたー」
 冷たい視線の中、由真はあっけらかんと自分の席に戻った。
 間山祥子が訝し気に由真と祐介を見比べる。由真は鼻歌をしながら、PCのスイッチを入れた。祥子が祐介を心配そうに見つめると、一層、祐介の方に視線が集まる。
 今すぐ、主任が立ち上がらん勢いでこちらの方を睨みつけている。怒気を孕んだ瞳に祐介は危機感を覚えた。

「……主任! 僕は下の方でお客さん待たせてるので、すぐに、下に行かないと」
「客? お前に客なんてこないだろ! ……おい、ちょっとまて、話がある。日付がいい加減なんだ。お前が提出してきた書類全部な……」
「な、祥子。来てたろ、人」
「えっ、あっ」
 いきなり声をかけられた祥子はギョッとした顔をして、祐介と主任の顔を見比べる。
 祥子に目くばせすると、何か言いたげに口を開いていたが、祐介が指を差して念を押すと「あ、ああ、うん……」としどろもどろになりながら、返答した。
 祥子は祐介のいうことには素直だ。主任をなんとかなだめてくれるだろう。祐介はそそくさと自分のオフィスを出ていくと下に向かった。
 主任もさすがに廊下を出てしまえば追っかけてくることもないはずだ。このビルは自社ビルではない。祐介の会社は十一階から十三階に渡ってオフィスを構えていた。各階の南側を全室借りているため、北側はグループ会社のオフィスを除けば、何の関係もない他社のオフィスが入っている。
 部下に対して居丈高の主任だったが、同時にあの男は小心者だ。公衆の面前では存外おとなしいものだ。廊下で大声を張り上げるマネなんてできないだろう。
 
「それにしても、主任はなんで僕にばっかり、いつも突っかかるんだ。仕事もしているだろうに。好きなんだろうか、僕のこと」
 祐介は確かに男でも言い寄られることもあったが、よもや主任が男好きというわけではあるまい。しかし、女をとっかえひっかえしている状態を羨んでいるわけでもなければ、主任の女を奪った記憶などない。第一存在しないものを奪うことなどできないので、主任が自分に執着する理由はまるでない。――と、祐介は考えていた。
 廊下を小走りで駆けていって、階段のところまでやってくる。主任も忙しい身である。少し時間を置けば、主任も冷静になってくれるだろう。自分にしかできない仕事もあるのだ。ほとぼりが冷めるまでは適当に下の階で暇を潰そう、と軽薄な男は考えた。

 なにか用があれば、ついでにしてヤるつもりだった。下の階には別の会社のオフィスがあったし、新島や花田がいたはずだから、逢いに行ってもいい――と思っていたが、祐介は寸前でとどまった。
 流石に昼休みを過ぎてまで、女を呼び出すようなマネはやりすぎだ。
 ――お前には欲望にかまけて、やりすぎて失敗したことがあったではないか。どこかで一線を引いていなければならない。危ういバランスで彼女らと自分が繋がっていることは、今一度考えて置かなければならない。
 祐介は脳の中に響いた忠告に従った。ともすれば、性欲だけで動いてしまうこのカラダを制御するには時折こうやって忠告する必要があるのだ。
 ――カラダの事情に振り回されるのは良くない。楽しみは取っておくに限る。秘密の楽しみは長く続けたほうがいいだろう? 今は我慢しておけよ。
 祐介は額を叩き、カラダをなだめすかした。ともあれ、今はじっとしておくべきだろう。祥子は上手くやってくれているだろうか。出来れば、由真もフォローに入ってもらいたいが、流石にそれは虫のいい話か。
 祥子は今頃、主任になじられ、由真がそれを焚きつけているところだろうということは透けて見えた。
「やー、悪いことをしたな。あとで祥子に埋め合わせしないとな。あとで予定でも聞いておこう」

 やや反省をしながら階段を降りようと踏み出そうとしたが、下の方から何か聞こえてきた。思わず歩みを止めた。なにか妙な予感がしたのは、祐介だけではなかった。下のオフィスからやってきた女性社員が階下の違和感に押されるように、急ぎ足で駆け上がってきた。廊下を渡っていた他社の社員も気もそぞろに階段の方に視線を向けていた。

「……は…、わ……、…は……、」
 ここの階段は一階から最上階まで折り返しつつも上まで繋がっている。
 とある事情から多少の声ではここまで聞こえないが、下から怒鳴り声で叫ぶと上まで筒抜けだ。
 鉄筋コンクリートのせいもあるのか、入っている会社があまり活気のないからかわからないが、下の方で少し騒いだりすると、意外と上階のほうまでよく反響してくる。
 下の方で騒ぎがあるのだろうか。祐介は思わず脚を止めた。

「ん」
「……なんか、下の方うるさくないですか」
「あ、ああ、そうですね」
 声をかけてきたのは自動販売機の補充に来たベンダーの男だった。たまに顔を合わせる、話好きの気のいい人間だ。オフィスから逃げてきた時によく顔を合わせるので、なんでも愚痴をきいてくれる。
 ベンダーは箱入りのドリンクを満載したカートを抑えつつ、階下を覗いていた。
 
 階下で何者かが怒鳴り声を上げているのは確かだった。くぐもった反響音で、何を怒鳴っているかはわからなかったが、耳を澄ましている内に、何者かは怒鳴りながら階段を駆け上がってきているように聞こえた。
 階段を派手に踏みしめる、ダン、ダン、ダン、ダン、という音が規則的に聞こえてきては、いったん中断し、もう一度規則的に聞こえてくる。この会談は多くのビルにある階段と同じように、下階と上階を繋ぐ階段は踊り場を介して折り返しながら上階に伸びているタイプの階段である。どうやら、階段を使って下の方の階からまっすぐ目的の階まで駆け上がっているらしい。
 カィン、カァンと金属製のナニカ――手摺だろうかーーに手か何かを派手にぶつかる音が聞こえてくる。

 それが徐々に近づいてくるので、祐介は下唇を触りながら少し思案した。
「ちょっと様子がおかしいですよね」
 ベンダーは少し腰が引けたようで、階段から離れていった。
「なんか、あったんですかね」
 祐介はベンダーとは反対に、階段に近づいていき、手摺の隙間から階下を覗いた。ベンダーが忠告するようなそぶりを見せたが、祐介は心配ないと後ろ手に合図した。
 時折、誰かに遭遇したのだろう、女性の悲鳴が聞こえてくる。
 だが、何者かはその声をかき消すように怒号を叫ぶと、悲鳴はすぐに聞こえなくなった。
 眉をひそめたのは祐介だけではない。いつの間にかベンダーも体を竦めつつも、好奇心に勝てぬ猫のように手摺の隙間から下を覗いている。
「……ええー、これ大丈夫ですか」
 ベンダーの声は震えていた。にもかかわらず、下を覗き続ける。
 この男は話している限り、小心者っぽかったので、なぜ逃げないのかと思ったが、後ろの、廊下の方をちらちらと見ている。
 ちら、と後ろを見たら、廊下にまばらにいた人間がわらわらと階段のところまで近づいてきていた。
 ベンダーはそもそも、逃げることができないらしい。それ以前に動けないらしいが。

 時折、訳の分からない大声が鼓膜を震わせた。何を怒っているのかわからない。異様な雰囲気が伝わってくる。
 男の叫び声、――そうだ男だ。ひっくり返った高音から女の可能性も否めなかったが、これは男の声だった。
 下から駆け上がってくるこの男は何のためにこんなに走っているのだろうか。ふと、ベンダーが妙なことを聞いてきた。
「犯罪的な、ことじゃないですよね。最近通り魔って多くないですか」
「通り魔?」
「ニュースでよくやってるじゃないですか。無計画に人を刺したり、後は女の人を襲ったりしている人、最近は多いんでしょう。男の人もやられたって聞きましたよ」
 祐介はあまりにベンダーの声が震えていたので、軽く噴き出してしまった。通り魔という発想は祐介の脳には無かったので、あまりにも突拍子もなかった。
「確かに聞くには聞きますけど。それって、メディアが面白おかしくいってるだけでしょう。それにこんなところにきますかね。考えすぎなんじゃないですか。第一、オフィスビルに通り魔が入ってくる状況ってなんです?」
 何かが割れるガシャンと音が反響する。「やっぱり通り魔かも」とベンダーが怯える。
「誰ですかね、こんな会社に恨み持ってる人間なんて。北村さん、あなたとか、ハハ」
 ベンダーは自身を奮い立たせて軽口を言って見せたのだが、哀れにも声は相変わらず震えている。
「僕に殺すほど恨みを持ってる人間なんて一人ぐらいしかいないんじゃないかなあ」
 祐介が返すと、ベンダーは「……その一人かも」とコピー紙よりも薄くぺなぺなになった声で返してくる。
「いや、それは。ないだろ。絶対に。ない」
 祐介が思い出した顔はこんなマネをするとは思えなかった。
「やるとすればもっと効率的に行くと思うよ。背中からナイフで刺すとか」
「それって、通り魔と何が違うんですか」
「あぁ。それは、それは確かにそうだな。」
 ベンダーは嫌な顔をして見せた。
「……でも、こんな下から大騒ぎしてくるのは効率的とは言い難いから、彼女ではないと思うんだよな」
「そうなんですね、はは……ひっ」
 下から怒号が迫るので、ベンダーはカートに縋りついて身を縮みこませる。カートの先端に置いてあったコーヒーの缶の箱が音を立てて崩れた。箱から缶がぽろぽろと崩れる。

 後ろにいる人間が慌てて、箱に近寄って二三個飛び出した缶を戻す。後ろの人間は「落ちましたよ、気を付けてください」と呑気な声で、ベンダーに語りかけた。
 後ろにいる人間はどうやら祐介以上に危機感のない間抜けらしい。ますますわらわらと人がやってきた。なぜ、日本人はこのような状況になるとわらわらと集まるのだろうか。本当に危ない人間だったらどうするんだろう、と祐介の脳内は一周回って冷静になって、考えていた。もう一定以上の騒ぎになっているのに、あまり声も上げない。
 わらわら集まっただけあって、妙な安心感があるのかもしれない。むしろ人間同士で団子になって、雑談まで始める状態だった。
 祐介とベンダーはもはや階段を下るか上るかする以外はその場を動けない状態になってしまっていた。

 何者かはあっという間に階下に迫った。次第に男は中高年特有の粘っこい声で、なにか嬉しそうに甲高い声を上げていることに気が付いた。
 祐介はますます眉をひそめた。なんの聞き間違えかわからないが、「わはー! わはー! わはー! わはー! わはー!」と意味のない言葉を叫び続けている。
 いつの間にか、階段を踏み切る回数が半分になっている。途中からテンションが上がって一段飛ばしで駆け上がってきているらしい。
 恐怖というよりも困惑が先に来た。下から駆け上がってくる男は明らかにおかしかった。
 にわかに後ろにいる人間たちがざわざわと騒ぎ始めた。祐介は逃げようとしたが後ろに群がる人間のせいで身動きはとれない。上階からも人がわらわらとやってくる。

 祐介は苛立ちを覚えつつ、しかし、上階に逃げたとてどうなるものでもない。今ここで大声を上げたとしても、通路が詰まってしまうだけだ。
 ……逃げることはできない。この勢いの男をどうにかできるものだろうか。
 祐介は状況にすっかり呑まれてしまっていた。手をこまねいている内に、すぐ下の階まで男が迫る。
 男が最後の踊り場で方向転換してギュリャと革靴を滑らせて踊りだしてきた。スーツ姿。想像通り中年の男。
「ぎゃわー! わは、わは! ひひひぃー!」
 男は脚は限界に近いのか、よたよたとして危うく転倒しそうになりながら、壁に肩から体をしたたかに打ち付ける。
「わはー!、ひひ、ひひふひ」
 ドンという音が聞こえたが、何事もなかったかのように祐介たちがいる階につながる階段を登ってくる。
 後退した脂ぎった頭皮は真っ赤に変色していた。目を見開いて、唇を剥き、食いしばる歯。その顔には見覚えがあった。

「青田部長!?」
「ぐひー、ひ、ひ。わはー! あ、北村君、北村祐介君じゃないか!」
 祐介と目が合うと、喜色満面に顔をゆがませた。祐介の知り合いどころか、自分の上司である。そういえば、今朝から見かけていなかった。それがどうしてこんなことをしているのか。
「北村君! 北村君! 北村君! わはー! 北村君! わはー! 探した探した探した! わはー! 僕はね、君に伝えたいことがあってきたんだ。ずいぶん探したよ、北村君! わはー!」
 青田は、「いち、にぃ、さぁん! わぁはー!」と二段飛ばしで階段を登りきると、体操選手のように腕を挙上すると、そのままの姿勢で北村の顔の目の前までやってきた。

「うわ、わわ」
 ベンダーは完全に恐れおののいて、カートをひっくり返す。缶やペットボトルがあたりに散乱する。下の階に転がる缶の群れにはじき出されて、後ろにいる人間は幾人か逃げ出したが、なぜかほとんどの人間は困惑からか、なぜかひっそりと静まり返って固まっている。何を思ったのか、腰が抜けてしまったベンダーは寝転がったままで散らばった缶をかき集め始めた。後ろにいた人間もなぜか缶を拾い始めて、ベンダーの手元に寄せ始める。
 何をやっているんだ、という祐介の憤りをよそに、彼の周辺数メートル離れたところでがっちりと組みあがった人垣のおかげで身動きがすっかりとれなくなっていた。
 生臭い息が鼻にかかり、ねばついた唾液が祐介の顔面に降りかかってくる。青田は祐介を壁際まで追い込むと、意味の分からないことを叫び始めた。
「ぼぉくわね、北村君。会社をやめることにしたよ!」
 耳が痛いほどの声量で青田は叫ぶ。
「は?」
「だから、辞めることにしたの! 仕事を! わはー!」
「なんですって?」
「仕事を、辞めるの! 今日で、僕は、わはー!」
「ちょっと、待ってください、今ですか? なんで僕に」
「いいから、わはー! これを受け取りタマエ!」

 青田はズボンのポケットからぐしゃぐしゃになった封筒を地面に叩きつける。呆気にとられる祐介に顎で拾うように示す。
 やや反感を覚えたが、青田の血走った眼力が尋常ではない。祐介は背をかがめて熨斗がついたその封筒を拾い上げた。封筒には金銀の水引までついていたが、ほつれて解けてしまっていた。
「わはー! いや、コンビニで封筒が売り切れててね、急いで書いたんだそれで許してくれよ。わはー!」

 中を見ると、普段字をいやに丁寧に書く人間であったはずだが、汚い走り書きで退職願が書かれていた。文字の判別に苦労したが、退職理由だけは「ユメだった登山のため」と力強く書かれていた。
「登山?」
 書面から目を離すと青田は顔面の筋肉をこわばらせた満面の笑みになっていた。
「そうだ! 登山なんだ! わはー! 僕は登山にめざめてしまってねえ! 青い空、深い緑、都会にない新鮮な空気、あれらが恋しくて恋しくてしょうがないんだ! わはー!」
「ずいぶんと急ですね。こういうのはステップを踏んでから」
「と、いうのは、今の社会流行らないんじゃないかな! わはー! もうどこでも僕たちは繋がれる時代なんだよ! だからこそ、我々ビジネスマンは早く行動しなければならないんだ。展開は素早くして行かないと乗り遅れてしまうよ! 北村!」
「いや、しかし、僕に提出されてもですね。僕一応ヒラってことなんで、預かってももう一度部長の方に連絡が行くと思うんですけど」
「なに!」
 青田は途端に顔をゆでだこのように真っ赤にすると、祐介の頬を殴打した。意識が飛びかけた祐介の首根っこを掴み、そのまま廊下の床に組み敷くと、そのまま締め落とす勢いで首に腕を絡ませてきた。
「ガフッ……」

 周囲の人垣は、小さく悲鳴を上げたが、どいつもこいつも止めようとも思わないらしい。より一層がっちりと組んで不動の姿勢をとる。頼りにならない人間たちだ。
 祐介は何とか抵抗するが、綺麗に腕が首にはまっているので抜け出せない。格闘技の経験などないので、逃れようもない。

「北村、お前よお! わはー! いっつも俺の指示聞かなかったよなあ! おめえ、全体のことわかってやってんのか、わはー! なあおい! お前がしっかりしなきゃいけねえんだぞ、おい! わはー! ヒラだろうが、なんだろうが、俺の退職願をすぐに処理してもらわねえと困るんだよ、こっちはさ! わはー! 今すぐ、受理しろ! 受理しろ! このためにさっき離婚届も出してきたんだ! ここで退職させろ! 殺すぞ、てめえ!」

 豹変した青田は口角に泡を飛ばしながら、北村の耳元で怒鳴りつける。祐介は薄れていく意識の中で、先ほどから「わはー!」と叫んでいるのはすべて息を吐ききって、無理矢理吸い込むときになっている音だと気が付いた。

この男、なにかおかしい。異様だ。力を制御できていないらしい。無駄に全力で首を締めているにすぎない。たるみきった中年の青田はこのような力はないはずだ。どうにも無理をしているらしい。青田は息切れをし始めると、力を入れている腕が徐々に緩んできた。祐介は締め付けられる腕の間に何とか腕を忍び込ませて、潰されかけていた気道の隙間に空気を入れる。
「受理しますよ! 受理、受理します」
 祐介はとにかくこの場を収めようと何とか返事をする。
「ホント!?」
 青田はパッと拘束を解くと、すぐさま立ち上がり、祐介の脇に手をやって強引に立たせた。茹だって真っ赤になっていた青田の顔は今度は血の気が失せて真っ青になっていた。

 ぜいぜいと息をして、時折せきこみ、わはー! と、肺に空気を入れる。気道が無理やり開いて、ぼごぼごという音が祐介の耳まで聞こえてくる。
「ごふ、ごほぉ! 受け取ってくれるんだね、僕の情熱を! 情熱の退職願を」
「ああ、そうです。受理しますよ」
「ありがとう! いやあ、優秀な部下を持って、僕は幸せだよ!」
 青田は熱い抱擁とともに情熱的なベーゼを交わした。ふくよかな唇が触れたかと思うと、男同士の歯がカツカツと触れ合う音が祐介の脳の奥まで反響した。
 大きな蛞蝓のように膨れ上がった舌が祐介の口を割って入ると、中でぬとぬととのたうち回り、粘り気の帯びた汁を注ぎ込まれる。青田の鼻息も荒く、中年の臭み、えぐみが満遍なく顔を覆った。
 祐介は嗚咽を漏らすと、青田は祐介の耳の後ろにそっとを親指を添えて、頭を支えるようにして逃がさない。
 人垣から小さな悲鳴が聞こえて、ざわざわと話している。人間たちは行く末を見守った。
 祐介の抵抗は無駄だった。青田とは背格好はあまり変わらなかったが、全く抵抗ができなかった。なすすべもなく口の中を蹂躙踏破されていく。
 部長の硬い唾液と祐介の薄い唾液が中和され、渾然一体となっていく、奇妙な感覚に気を失いそうになりながら、祐介は何とか抵抗を試みる。
 が、抵抗などできるわけがなかった。青田は理由は分からないが、殺す勢いで力をふり絞っている。青田の舌の動きは単調で機械的といってはそれまでだが、違う生き物が口の中に入ってきているようだ。祐介は男の舌の経験は少ないが、舌は緊張しきっているにも関わらず、青大将のようにのたうつ。中年の舌はざらりとしていて、細かな鱗があるかのようだ。それがざらりざらりと祐介の口腔内を削り取っていくので、徐々に祐介の目から輝きが失われていく。
 負けないように抵抗するが、後先考えないキスに逆らえるはずもない。
 丹念に祐介の舌、天井、歯から歯茎、調べつくすようにべろべろ舐り倒し、甘美な摩擦を堪能しきると、祐介の唇からちゅぽんと舌を抜き、長い接吻が終わった。
 祐介は膝に手を付き、胃の中のものをひっくり返すのも、気にせず、泡だった唾液まみれの口元をそのままに、青田は苦しがる祐介の背中をバンバンと叩く。
「いやあ、君に会えてよかった! じゃあ、僕はこれで! 今から山が待っているぞぉ!」
 青田元部長は方向転換すると、怒声を上げながら階段をかけ下りて行った。

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