見出し画像

山にむちゅう(5)

 遠ざかっていく青田 ”元” 部長の声を惚けた頭で聞きながら、立ち尽くしていた。祐介は中年男の唇は初めてだった。なにか大切なものをなくしたような気がしたが、それどころではなかった。
 不意に舌を切り落としたい気分になったのである。歯でかみ切ってやろうとすら、カラダが思い始めたので、――やめろ、それはまだ使うものだ、と必死に念じ、切り落とすのを何とかやめさせた。それほどまでに不快だったのだ。
 祐介は舌に感じる不快感を取り除くために、舌を出し入れしてぬめりを落とすように前歯で表面を濾し取って、口の中の液体をすべて床に吐き出した。が、不快感がついに脳天にじわりと忍び寄ってきた。
 祐介は胃の中のものを全部ぶちまけた。
 
 周囲を囲んでいる人垣も祐介に同情しつつ、突如として中年男と目の前の男の濃厚なラブシーンを思い出して当惑して、その場から動けなくなっていた。同僚も、他社の社員まで、雁首並べているのに、なぜ介抱せず、眺めているだけなのか、非常に不思議だった。祐介は普段の素行が悪いからか、と周囲を恨みながら膝に力を入れようとした。
 部長の飲ませた唾液は痛烈な毒であった。情けないほど力が入らず、生まれたての小鹿のように膝を左右にがくがくと揺らしながら立ち上がろうとする。頭痛もする、いや、脳が悲鳴を上げている。側頭部に大きな穴が開いたかのような痛みを感じ、右顔面が引きつってきたように感じた。全く、中年男性の唾液は神経毒さながらであった。

 しばらくして、聞き覚えのある女性の声が聞こえてきた。祐介が何とか口元をぬぐい、震える膝を人垣を掻きわけて、大きなお団子頭が見えた。大きなお団子、黒縁眼鏡……営業課のお局の中内だった。
 
「こんなところで、なに群がってんの。散って散って」
 普段空気を読まない中内だったが、それが助かった。
 一重の鋭いまなざしから放たれる白けた目線で黒山の人だかりを追い払うと、中内はよろよろと立ち上がろうとする祐介を見つけると瞼をぐっと持ち上げて、目を丸くすると歩を速めた。近くまで寄ると、祐介の足元に吐瀉物、祐介の顔面が蒼白で具合が悪そうだったので、それどころではないと判断した。中内は祐介の背中を擦って介抱を始めた。

「すみません、腰が抜けて」
「腰が抜けたどころじゃないだろう、これは。……吐いたの? 具合が悪いの? 無理に立たなくていいから」
「いえ、大丈夫です、立ちます」
 健気に立ち上がろうとする祐介を支えながら、中内はベンダーの男に「自販機の人ですか」と強い眼差しを向けた。
「あ、はい」
 中内は水のボトルを拾い上げると、ベンダーに財布から200円を渡す。
「お金、とりあえず、それしかないから。お釣りはいいですよ。ここは私が預かるので、あなたは仕事に戻ってもらっても大丈夫ですよ」
 ベンダーは200円を受け取ると、もう関わり合いになりたくないのだろう、その辺に散らばった缶を集めるだけ集めると去ってしまった。

 中内はポケットからハンカチを取り出すと、背中を擦りながら、汚れた祐介の口にあてがい拭いてやった。
「すんません、面倒かけます」
「顔色悪いけど、何かあった。救急車呼んだほうがいい? 水、飲める?」
 中内は肩を貸しながら、ボトルを開けて差し出してくる。
「いただきます」
 祐介は差し出された水を口に含み、ゆすいでは床に吐き出した。中内は足に吐き出した水がかかって眉根を顰めたが、祐介の必死の形相をみて、特に何も言わなかった。四度口をゆすいで、ボトルを空にするまで、背中をさすってくれていた。少しは不快感が薄れた頃、祐介はようやく自分の力で立ち始めた。

「本当に大丈夫? すこし異様だよ」
「救急車は、いえ、それには及ばないです。ちょっとくらっと来ただけなんで。……どうしてここへ」
「いや、それ聞きたいのこっちなんだけど。青田のやつ、こっちきたよね」
と、不遜に答えた。
「来ました」
「あのクソのせいか」
 中内は珍しく吐き捨てるようにつぶやいた。
 真面目な中内が職場でこういう発言をするのには驚いた。思い返せば、青田にだけ妙に辛辣だった気がする。確か中内は青田の部下だった。困っているときに青田元部長の相談に乗ってもらってから、何かと親身にしてくれているため、青田とは過去に何か因縁があるのだろうと想像していた。
 中内は途端に火が付いたようにまくし立て始めた。

「あいつ急に気がふれたみたいになってて……。外回りしていたら、うちの部下に絡んでいたからさ、間に入ったら、なんというか、顔を近づけて、キスするつもりだったのかな。とにかく気持ち悪くて、部下から離れるように言うと、そんなこといわないでよ、僕と君の仲じゃないって今度は私の方にやってきて、それで蹴っ飛ばしたんだけどさ。ケチだのなんだの捨て台詞吐いてさ、そのまま上の階にいっちゃって」
 どうやら中内は階下で青田にあっていたらしい。自らも興奮した青田にキスされそうになったと言ったが、蹴とばすとはなかなかの女っぷりだった。様子がおかしいとそのままエレベーターを使って追いかけてきたとのことだった。
「向こうの方で、それで追いかけてみたら、あんたはどうしたの」
「僕も、青田に、……きつい一発かまされまして」
 勢いに飲まれながらもなんとか答えると、中内は頬を紅潮させた。
「一発? なんかされたってこと? さっきから胸抑えてるけど、殴られたり?」
「まあ、ほとんどそういうことです。心臓が止まるかと思った……」
 情熱的なベーゼのことは伏せておいて、青田に加害されたということだけ教えておく。
 中内は胸を押さえていたことから、どうやらみぞおち当たりを殴られたのだと思っているのだろう。ひどく心配そうな目をして肩に手を置いた。……中内の優しさに中年男の唾液を流し込まれたせいで気を失いかけていたとは言うことはできなかった。どうせ後になってバレてしまうが。

「そういえば、青田が、これを」
 手に握りしめていたもはや原型をとどめていない紙の塊を中内に渡す。中内はそれをほぐしながら中を見る。
「なにこれ……水引? これ、ご祝儀袋じゃない!? 中には、お金は入ってないみたいだけど、この紙は」
「それ、青田の退職願です。自分に提出してきたんです」
「退職願? なんで、君に。こういうのは役員とか集まりとかで提出するものだよね」
「いや、わけわからないです。退職願を受理しなければ、殺すとか言ってましたが」
「え、ちょっとまって、殺す? 殺すって言ったの?」

 中内はこめかみを抑えながら思案して、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「通報する。明らかに様子がおかしいからね。興奮するにしても、危ない薬でもやってるのかとも思うし」
「いやそれは、どうなんすかね」
 大事にしたくないという気持ちが多少なりともあったし、中年男に口の中を嘗め回された話を他人にするのが億劫だったので、祐介ははぐらかすような言い方をしたが、中内はすでに頭にきているらしく、頭のお団子が爆発寸前まで震えていた。
「どうなんすかね、じゃなくてさ。コンプライアンス違反とかじゃなくて、もう立派な犯罪だろう。警察呼んで対応しておいたほうがいいってことじゃないの、これ」
 中内は祐介に青田の様子を端的に聞きだすと、緊急通報で110番する。
 対応した警察官に経緯を説明する。時折、祐介に質問しながら確認をとると、15分程度で警官がやってきて来るそうだった。
「とにかく、詳しいことは警察に話そう。これ、内々で処理する内容じゃないから。君は今日仕事しなくていいからね。警察が来たら説明手伝ってもらうけど、そのあとすぐに家に帰すから。それまでゆっくりしときなさい」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?