山にむちゅう(3)

 由真が屋上への扉を開くと、冷たい風がびゅうと吹き込んできた。風に体をややのけぞらせながらも、祐介の姿を探した。祐介は屋上のどこかにたどり着いていたはずだが、姿が見えない。
 屋上には柵に囲まれた大きな箱状のなにかの設備が置いてあって手狭であった。奥のほうにいるのだろうか。
 冷たい風に紛れてタバコの香りが流れてくる。由真はその香りを辿って、奥に進んだ。設備に隠れていたが、奥のほうはパイプや段差が隠れていて、かかとがつぶれたパンプスじゃ、何度もつまずきそうになる。
 由真は箱のような設備と設備の間、一人通るのがやっとという隙間に祐介の背中を見つけた。
 祐介は屋上からの落下防止用の鉄柵に肘をおいてタバコを吹かしていた。
「こんなところにいたの」
「僕、狭いところに入るの好きだからさ」
 由真は祐介の背中に抱きつくと、そのまま脇の下に頭を滑り込ませて鉄柵と祐介の間に身を置いた。
「あぶないぞ、火がついてるんだから」
「ダメ?」
「いや、気にしないけど。じっとしてろよ」
 祐介は由真に灰が被らないように、タバコから距離を離す。背をそらせて一服すると、タバコをできるだけ由真から離した。
「なんでここで吸ってるの」
「今日は風がきついから火が付かないんだよ」
 見れば、タバコの煙がまっすぐ登っているのが見えた。風は吹きこんでいないらしい。
「あんまりくっつくなよ。涼みに来たんだから」
 しばらく沈黙が続いた。季節はもう初夏である。祐介の言っている通り、5分だってくっついてもいられなかった。設備に隠れて陰になってこそいるが、左右からじりじりと熱気が伝わってきた。風はまだ冷たさが混じっていたから少しはましだった。が、じきに暖かくなってくるだろう。来週ごろにはこうしていることはできないだろうから、行為が終わった後に涼むところを変えなければならない。

「祐介、前から気になってたけど、これ何? この薄黄色いの。なんかの電源設備?」
「あ? ああ、それ」
 祐介は大きな黄色いタンクに目をやると、タバコの灰を親指ではじきながら落とした。それから退屈そうに言ってのけた。
「高架水槽。そこに水ためておいて、このビル全体に使うんだよ。昔はポンプで高層階まで送る技術がなかったから、こういうタンクに貯めてたんだってさ。今はポンプの性能がよくなってあんまり見なくなったらしいけど」
「へー無駄に詳しい」
「みんな聞いてくるんだよ。なぜかわからないけど。みんな気になるっていうの。で、あまりにもみんな聞いて来るから、この間、ネットで調べた」
「みんなって?」
「由真ちゃん以外の人」
 由真はあきれ返った。この男、同じことをしているらしい。
「いろいろコストの問題もあるらしいけど、うちの会社のビルみたいな中途半端な高さだと基本的に古い建物にしかないってさ」
 祐介は隣の大きなビルを指差す。
「ほおん。今度、佐々木さんに教えてあげよ」
「なんで、そこで佐々木先輩が?」
 始終由真の言うことをのらりくらりとかわしていた祐介だったが、意外な名前が出てきたので、引っかかった。タバコを一吸いして、親指で下唇を押しながら考えている内に、なるほど、由真も佐々木と行為に及んだあと、屋上で涼んでいたのであろう。佐々木と言えば、祐介の部署の営業担当だ。仕事はできるらしいが、体育会系らしい暑苦しさがあり、祐介は苦手だった。周囲の反応から真面目に働いているようであるが、見た目と評判と違って裏ではやることはやっていたらしい。
 別段、そこを糾弾することもなく、祐介は苦笑しながら、由真の話を聞いた。すると、高架水槽に興味を示して、なんと上に登っていたらしい。佐々木は見かけは中年の域に達していたはずだ。
「バカと煙はなんとかだーって言ってた。どういう意味だろ?」
「大して意味なさそうだけど」
 祐介はまさか佐々木にそんな一面があるとは思わず、苦々しい顔をした。
「割とできる人だと思っていたんだけどな」
 今までの働きぶりからあまり想像ができなかったことなので、ふと佐々木の普段の素行が気になった。ともすれば、自分と同種の存在でライバルかもしれなかい。少しマークしておく必要があるか、と祐介は考えた。
 
「佐々木先輩って普段何してるの?」
「なんで気になるの?」
「ライバルだからね。僕と同類かも」
「あー、女漁りの?」
「生存競争ってやつ」
 女を巡ってのあれこれは祐介の平穏な生活から避けるべき事態である。
 男の佐々木にさほど興味はなかったので、本性はわからないが、嫉妬に狂う男であれば、場合によっては由真を遣ってしまったほうがいいとさえ思っていた。別にこの世には女は掃いて捨てるほどいるのだ。
 由真は「確かに女の子いなくなると、祐介は死活問題かもね」と笑い声を上げると、祐介は首を傾げながら「その通りだよ」と返した。
「女の体無しに、生の謳歌なんてありえないからね。」
 
「本当に下種なんだから。本当に女は体目当てなんだね」
「生き物なんてそんなものだよ。食欲が足りれば、性欲ありき。ニンゲンにもどんな生き物にも増殖本能があるのさ。自分と同じ思想を増やして、より良い性生活を送りたいんだよ。欲、欲、欲。どこまでいっても底抜けの欲だよ。世界が破滅しようと、男も女も穴に出し入れすることしか考えていないさ」
由真はそれを聞くと、腹を抑えて大笑いした。あまりにもすがすがしい言い分に大笑いした。
「なんかもう、お腹攣りそう」
「それで、佐々木先輩はほかの女にちょっかいかけているのか」
 由真は呼吸が落ち着くと、「違うんじゃない? そこでやった時は私から誘っただけだし」と証言した。
「本当にそれでついていく人間なのか、佐々木先輩」
「あれでバツイチらしいし。心の隙間埋めて、いい感じにして、後は立ち合いから流れに任せて、ドーンのパターンですよ」
「最低の女だ」
「まあまあ。でも、やったらやったで、なんか必死に謝ってきたし。黙っておくってさ。それから二回ほどあったけど。手ごたえないっちゃないなあ。……優良物件っぽいけど。祐介はキスはうまいけど、結婚するなら佐々木先輩かな」
「なんだ、お前みたいなやつが結婚のことなんて考えていたのか」
「それは祐介に関係のないことでしょ。やりたいのはやまやまだけど、妥協しないといけないときだって来るでしょ。アタシ、頭良くないし。それなりに金稼いでくる男は捕まえたいんだよね」
 祐介は計画性があるのかないのかわからない由真にあきれつつ、佐々木の女の趣味を聞いた。由真曰く、少なくとも自分はタイプではないらしい。
「……頭が真面目な女が好きなんじゃない? アタシみたいな女は体はともかくとして、結婚なんてとてもとても。意外と普通の女の趣味だよ。どこにでもいるような人が好きなんでしょ。趣味はつまらないタイプ」
 祐介は佐々木がさほど脅威ではないということが判明して、面倒なことにはならなさそうだと感じた。話を聞く限り由真がしつこく誘っているだけのように聞こえた。しかし、話し終えるかどうかのタイミングで、由真は目を泳がせて、言葉に詰まった。それから、――ただ、と由真が続ける。
「ものすごく、趣味に付き合え、って言われるんだよね。それもすごく」
「趣味?」
「山。山にものすごく誘われるんだよね」
「山? 何やるの」
「や、普通の登山? ハイキングって言ったっけ。日帰りで山登るのが好きみたいで、あたし、なんか疲れそうで断ったんだけど。永遠誘ってくる」
 佐々木らしいといえばらしい趣味だ。確かに体育会系の人間が好きそうである。そういえば浅黒く日焼けしているのも登山のせいかもしれなかった。
「私の周りでは手当たり次第に誘っているみたいだけど、祐介は誘われたことないん?」
「そもそも登山が趣味というのも初耳なんだけど。女の人ばかり誘ってるんじゃないの?」
「え? あー、確かに。そっか」
「趣味が合う女探してるんじゃないの? 佐々木先輩独占欲強そうだし、趣味も生活も合わせろってタイプでしょ」
「ほんとに手あたり次第って感じだけど。今日も有給使って山に言ってるみたいだけど。……ねえ、今日有給つかってる人って誰がいるよ?」
「足立さん?」
「足立さん?」
 足立は外回りに行きがちの佐々木の補助についている先輩社員だ。てきぱきとこなし、無駄口を叩かない性格だった。祐介は昨日足立がしきりに明日の天気、つまり今日の天気を心配していたことを思い出した。卓上カレンダーに意味深にシールがついたし、いつもは明日に仕事が残るのが嫌だと切りがいいところまでやってしまう性質で結構残業することが多かったが、昨日は佐々木と似たようなタイミングでそそくさと出て行った。
「あー、あの足立さんがねえ」
 祐介と由真は感嘆した。思えば、かなり大きな接点はあった。佐々木がさばいている顧客は他の人間の倍はある。そこそこ大口の仕事もあるので、ベテランの足立が専属についているのだった。佐々木と一番会話している人間だった。
 足立とくっついてくれるなら、祐介としても好都合だった。
「足立さんだけで良かったよ」と、安堵の声を上げると、由真はニタニタ笑った。
「だけ、で?」
「そう。だけで」

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