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柴田宵曲『古句を観る』

梅雨も明け本格的な暑さの到来となりました。こう暑いと、腰を据えて大冊を前にするのも億劫になりがち。気軽にどこからでも読めてどこで読み終わっても構わない本がこういう時にはありがたい。ということで書棚から本書を取り出してきました。

柴田宵曲は明治39年生。学歴こそ中学中退ですが、俳句の才能を高浜虚子に認められて雑誌「ホトトギス」の記者となりました。その後市井の文人として、権勢に阿ることなく、静かに本を愛して過ごし生涯を終えました。その宵曲が元禄時代の無名の俳人の句をまとめ、簡潔な解説を付して編んだのがこの『古句を観る』です。

「世に持囃される者、広く人に知られたものばかりが、見るべき内容を有するのではない。各方面における看過されたる者、忘れられたる者の中から、真に価値あるものを発見することは、多くの人々によって常に企てられなければならぬ仕事の一であろうと思われる。」という思いがこの本の根底に流れていますが、内容は決して堅苦しいものではありません。選ばれた句は特に難解なものはなく、宵曲の解説も平易でありながらも随所に深い教養が窺い知れる味わい深い文章となっています。

本書は季節ごとに章立てされていますが、時節柄夏の句に絞っていくつか宵曲の解説と共に紹介したいと思います。

撫(なぜ)て見る石の暑さや星の影  除風

暑さの句というものは赫赫たる趣を捉えたのが多いが、これはまた一風変わったところに目をつけた。一日中照りつけられた石が、夜になってもほてりがさめきらずにいる。恐らく風も何もない晩、空に見える星の影も、いずれかといえば茫としたような場合であろう。作者の描いたものは、僅に手に触れる石のほてりにすぎぬようだけれども、夜に入ってもなおほてりのさめぬ石から、その夜全体の暑さが自然と思いやられるのである(後略)。


鮓喰て先おちつくや祭顔 蒙野

祭の家に招かれた場合であろう。もてなしの鮓の御馳走にになって、一先ず落着いたら、何となく祭らしい気分になった、という場合を叙したのである。(中略)何々顔、という言葉は平安朝以来のもので、天明時代になってから、蕪村や太祗が頻にこれを句に用いた。子規居士もこの語について何か書いたことがあったと記憶する。「祭顔」というような言葉でも、たった一語で祭の気分を最も端的に現している。これに代うる言葉の見当たらぬのは勿論、説明しようとすれば多くの言葉を補わなければならぬ。日本語の長所のよく発揮された一例と見るべきであろう。

こうした渋い味わいのある本が気軽に文庫本で手に取ることができるのはありがたいですね。岩波文庫の隠れた逸品と思います。

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