長谷川博一「追憶の泰安洋行 細野晴臣が76年に残した名盤の深層を探る」

<僕にとっての『泰安洋行』とは音楽のロマンティシズムの結晶。そして欠点や落ち度が見つからない希代の名アルバム。(中略)『泰安洋行』が鳴っている間、僕は夜の海と風の匂いを感じ取る。それは、この上なく幸せな時間である。(最終章「ぼくと君のララバイ」より)>

1976年は日本のロック・ミュージックが大輪の花を咲かせた年でした。鈴木慶一とムーンライダーズ「火の玉ボーイ」、矢野顕子「ジャパニーズ・ガール」、山下達郎「サーカス・タウン」、大滝詠一「GO!GO!NIAGARA」などなど、発売時のセールスこそ大きい数字ではありませんでしたが、現在に至るまで多くの音楽ファンに聴き続けられてきた名盤がずらりと並びます。その中にあってひときわ異彩を放つ傑作が細野晴臣「泰安洋行」なのです。

細野晴臣の一般的な知名度が高まるのはイエロー・マジック・オーケストラ結成(1978年)以降、80年代になってからなので、76年当時は知る人ぞ知る存在だったといってもよいでしょう。しかし、ニューオリンズや沖縄、キューバ、ハワイなどのエキゾティックなサウンドを独自の感性でブレンドして生み出された(細野自身の言を借りれば<ソイソース・ミュージック>や<チャンキー・サウンド>)『泰安洋行』は、今なお細野晴臣の代表作のひとつとして輝きを放っています。「個人的にはこの『泰安洋行』こそ、音楽家・細野晴臣50年余の多岐にわたる音楽活動の中で、最大の音楽的遺産ではないかと思っているものです」と熱く語る著者の長谷川博一もそのひとり。

本書はもともと音楽誌「レコード・コレクターズ」に連載されたものですが、レコーディングに参加した音楽家やスタッフなど多様な人物の証言が盛り込まれています。当時の細野がよく語っていた<一拍子>や<おっちゃんのリズム>といった、分かるような分からないようなままだったキー・ワードを詳しく語ったドラマー・林立夫、細野と共に沖縄音楽に積極的なアプローチを試みた久保田真琴、収録曲「東京シャイネス・ボーイ」のモデルであり、細野と交流の深い鈴木慶一が語る、当時の音楽仲間で流行していた音楽など、細野と同時代の音楽家の証言が興味深いのはもちろんですが、音楽学者の輪島裕介による、昭和のリズム歌謡との比較や、『泰安洋行』の遺伝子を今に受け継ぐグループ、民謡クルセイダーズの紹介など、多面的なアプローチによって、『泰安洋行』の魅力が立体的に浮かびあがってくるのがたまりません。タイトルには「追憶の」とあるけれど、昔はよかった・・・のような懐古趣味に陥ることなく、過去・現在・未来へと音楽のバトンを受け継ぎ、つないでいかんとする著者の意志が全編にみなぎっているのです。

残念ながら著者は連載終了後、単行本化を進めている途中で病に倒れ、昨年逝去してしまいました。しかし、鈴木総一朗などの尽力によりこうして書物としての形をとり、多くの人が手に取れるようになったのです。音楽の解説という枠を超えて、優れた音楽がもつマジック、人を動かす力を実感できる感動的な一冊。

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