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死を目前にした父との時間があったから




やっぱり海外に行きたい!!!!


それは、ずっと温めていたのに忘れかけていた想いでした。現実味をおびて戻ってきたのは、末期癌で余命1年、と告知された父とともに過ごしていたときです。実際にはたったの4カ月でしたが。 


26年前のあの頃は、本人への癌告知はまだまだまれでした。どんな小さなウソでも見抜いてしまう父へは、告知以外に選択がなかったのですが、簡単なことではありませんでした。正確な情報を!と詰め寄る父を前に、うろたえる担当医。私達にできることは限られていました。


今思えば、父からのプレゼントですね。私が父の傍にいることにしました。


自分の気持ちを無視し抑えこみ過食嘔吐を繰り返しながら、仕事へ何かへ向かって必死で走る毎日に、ひとまずの休息期間をもつことができました。それは潜在的にあった私の願いでした。また、これは天命だと生きがいをもって働いていた母が仕事を続けることは大切で、また自然なことでした。


食べたいものも食べられず、楽しみは気分の良いときにできる読書くらい。そんな父のために本屋をめぐり、ウトウトとする父の傍に座り、身の回りの簡単な手伝いをする毎日。仕事や社会に関する全てのプレッシャーから逃れ、生まれて初めて、ゆっくりと父と時間をともにしました。


死に対する恐怖、孤独感、絶望感、、、父の激しい痛みや苦しみを目前にしながらも、ゆったりと流れる毎日でした。私の中にそれまで常にあった、何かに、誰かに、追いかけられているような焦燥感が薄らいでいきました。父を前にすると、そんなものはすっかり意味をなさなかったのです。


いったい私は誰になろうとしていたんだろう?

私はそもそも何者だろう?

どんな人になりたい

本当は何をしたい

私はどんな風に生きたいんだろう?


周りの人たちの邪魔をしないように、期待に応えなければ、と顔色をうかがうことに必死だった日常にはなかった質問がつぎつぎ湧いてきました。自分の納得のいく答えをちゃんと出して、それに従う、そんなことは私のペースでは不可能、、、とその想いすら、もみ消してしまっていたようです。


父は自分の人生についてどう思っているんだろう、どう考えているんだろう、、、本当はいろいろ聞きたかったし、話を聴いてほしかったのですが、死を前にした父に私の将来なんてと罪悪感を感じ、ついに一度も話せませんでした。壮絶な4カ月でした。


傍にいても父の気持ちにどう寄り添っていいかわからりませんでした。私なりに最善をつくしましたが、実際に自分がどのくらい父の役にたったんだろうと、今でも疑問です。どう考えても父が私に与えてくれたものの方が何百倍も大きく、豊かです。


享年55歳。歳をとるなんて思いもしなかった20代の私もあの頃の父の年齢にどんどん近づいています。様々なセラピーを学ぶようになってからは、亡くなった父と会話をするようにもなりました。生きていた間より存在が近く感じられるような、不思議な感覚です。


この期間も過食嘔吐は続いていましたが、頻度は減っていました。自分の役割がはっきりしていたからだと感じています。父の亡くなった後やはりまた頻度が増えました。過食嘔吐は私にとって、一種の精神安定剤のようなもので、手放すことなんて考えすらなかったかもしれません。


その後、父のおかげで湧いてきた想いに従った結果、ボランティアビザを手にイギリスへ旅立ちました。亡くなって2年少したったころでした。





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