見出し画像

子供のオシャレ着は20年後も役に立つ

子供のオシャレ着は、正直高い。すぐサイズオーバーするので一着あたりの着る回数を考えるとコスパも悪い。汚したり洗濯したりすることを考ると、私はつい使い勝手のいいチェーン店の服をまとめ買いして済ましてしまう。
けれど最近、子供のオシャレ着は20年後にも役に立つと気づいた。

先日、娘の1歳の誕生日プレゼントとして初めてブランド物の服を買った。最初はファーストシューズだけを買うつもりだったのだが、百貨店の売り場を歩いているうちに夫が「折角だから服も買ってあげよう」と言い出したのだ。
思えば娘の服は従姉妹のお下がりばかりで、冬になってからは新しい服を1着も買ってあげていなかった。
ふと娘の着ている服を見ると、布にびっしりついた毛玉が百貨店の明るい照明に照らし出されていた。

売り場を回り、上品なウールのセーターと緑のチェックワンピースを見つけた。試着してみると娘によく似合ったので値札も見ずに買うと決めた。レジで値段を告げられた時は想定より2倍も高くて驚いた。
まあ、娘の服を買うことはほとんどないから今回くらいいいかとも思ったが、あまり着る機会もないのにこんなに高価な服を買う必要はなかったのではないかという思いも、その時にはあった。

服を買ってから一週間後、スタジオで娘のバースデーフォトを撮影した。夫と一緒に選んだセーターとワンピースはやはり娘によく似合っていて、新しい服を買ってあげてよかったと感じた。

「写真に残るものだから」

バースデーフォトを撮る前後、夫はよくそう口にした。その言葉を聞いても、それまで私はなにかを思うことはなかった。だが、今回娘に晴れ着を準備して写真を撮ったことで、私の中である記憶が思い起こされた。

それはもう10年も前、私が19歳の時の出来事だった。


子供の頃、私の家は決して裕福とは言えない時期があった。
服は大抵姉か兄のお下がり。小学校の制服も新しいものを着る機会は少なかった。セーターの袖は破れていたり穴が空いていたり。体操服のズボンは丈が短すぎるか、そうでなければ長過ぎた。
そんな風だったから、当時は着ているもののせいで恥ずかしい思いをすることも多かった。

19歳の夏。当時の私は大学生で、実家から大学に通っていた。
来年の成人式に向けていよいよ振袖の準備をしなければならない時期で、実家の郵便受けには、着物屋やレンタルショップから成人式の振袖に関するダイレクトメールが毎週のように届いていた。

その頃の私は、大学の学費を奨学金とアルバイトの給料から賄っており、日夜アルバイトに追われる生活をしていた。
成人式には当然参加するつもりでいたが、振袖を準備するのは正直なところ金銭的に厳しいと感じていた。
普通の格好で成人式に行く訳にもいかないだろうし、どうしたものかと考えていた時、母が成人式の振袖を見に行こうと言ってきた。レンタルにはなるが、振袖のために積み立てていたお金があるからと。

それを聞いて、私は驚いた。
母は、お金のやりくりが上手ではない。
世間の多くの家庭がそうだと思うが、冷蔵庫は常に食材でいっぱいで、その中の何割かは使わずに腐らせてしまう。
娘たちの着るものにも特に口出しすることはなく、毎日洗濯機から出して干している服が、姉のものか妹の私のものかもわかっていなかった。
そんな母が、毎月千円ちょっとずつ、何年も何年もかけて20歳になった私の振袖のために貯金をしていたのだ。

思春期の頃、私は両親との関係があまり良好ではなかった。
けれどその夏、親孝行になればと、お金を貯めてくれていた母に加えて父を誘って、成人式のための振袖を見に行った。

どの振袖を当ててみても、母は驚いたような顔をして似合う似合うと言った。
父は照れていたのか言葉少なに、さっきのがいいだとか、柄の位置がどうだとか感想を述べた。

赤い振袖はベタで自分らしくないなと思い、黒地に鮮やかな華の柄が入った振袖を選んだ。両親はいいと思うと賛成してくれた。きっとどの着物を選んでも、そう言ってくれただろう。

年が明けて成人の日がきた。

その日は朝から真っ白な雲が空全体を覆っており、父の運転する車で成人式の会場に着く頃には小雨がちらついていた。

私は夏に選んだお気に入りの一着を身に纏い、憧れだったふわふわした白い毛のショールをかけて、小中学校の同級生たちと再会した。
小中学校時代の同級生がいない高校、大学に進学していたので、久しぶりに旧友と会うのは嬉しかった。

子供の頃は、クラスメートの男子にお下がりでボロボロの服をからかわれたこともあった。私は両親に新しい服を買ってほしいとは言わず、意地になってお下がりを着続けていた。
けれどその日は、自分で選んだ振袖を着て、誰に対しても恥ずかしい思いをすることなく成人式に参加することができた。


20歳のあの日から9年が経ち、私も女の子の母親になった。
子供が生まれて1年、従姉妹らのお下がりばかりを着せていたが、母が準備してくれた振袖のことと夫の言葉で私は、写真を撮る時にはとっておきの服を着せるべきだと気づいた。

写真を撮るという行為は現在よりむしろ未来の自分たちのためだ。10年か20年経って写真を見返した時、過ぎた時間の思い出が加わり当時の姿や着ている服に懐かしさが込み上げる。
もう着られなくても、手に触れる形には残っていなくても、子供のオシャレ着は写真を見返す度に輝きを放ってくれるだろう。

従姉妹らのお下がりがあるのはありがたい。子供はすぐに大きくなるし、着ているものを汚すし、服は何枚あっても足りないくらいだ。それに、姪が着ていた服を自分の娘が着ている姿は、当時の姪の残像が重なって可愛さ倍増である。

従姉妹のお下がりを気に入っていたからこそ、これまでは子供が小さいうちはできるだけ節約して、将来の教育費にあてたいと思っていた。けれどこれからは、お下がりで浮いたお金でオシャレ着を買うつもりだ。
スマホやタブレットでいつでも写真を撮れる現代では、子供時代の写真も沢山残る。それは素晴らしいことだが、着ている服がボロボロでは、せっかく残った娘の可愛い姿が台無しだ。

子供のオシャレ着は、正直高い。でも、私は娘に時々きれいな服を着せたい。20年後に写真を見返した時、写真に写る娘にはきれいな服を着ていてほしいから。

文章で仕事ができることを目指しています!サポートいただけましたら生きていく自信になります!